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ブルアカ『あまねく奇跡の始発点』感想③──誰にも帰責できない奇跡の話

最終編4章(完結)までのネタバレを含みます。

↓過去の感想


 ストーリー更新があったばかりで、ちょっと興奮醒めやらぬ気持ちだが、いろいろ考えることもやめられないので吐き出していこうと思う。思えば1月からほんとうに更新があるたびに感情を揺さぶられ、良い意味で翻弄され続けてきた激動の日々だった。やりきったなあ……ブルーアーカイブ。

プレナパテスについて

 途中まで単なるATMかと思ったプレナパテスだが、単に失敗した世界線(ブルアカにおいては「時間軸」と呼称される)の先生だったというだけではなく、自らの選択のうえで嚮導者になったという真の覚悟のひとだった。有能さと徳の高さではこちら(プレイヤー)の先生とほとんど変わらないのに、なぜあっちの世界ではあんなことになってしまったのか……。
 基本的に先生のスタンスは「生徒全員救う」という点で一貫しているけど、それはプレナパテスに関しても同じで、シロコ(テラー)を助けるためにその瞬間に最善の選択をしている。しかも別の時間軸の自分(先生)ならきっとシロコを助けられるはずだという確信の中でその選択をしている。結果としてプレナパテスが導かれたのは誰一人死んでいない完璧に近い状態のキヴォトスだったわけだが、それはあくまで結果論で、ほんとうはどんな世界に飛ばされるかもわからなかったはずだ。つまるところ、プレナパテスもまたエデンの存在を信じて突き進んだ者のひとりといえる。やっぱり根はこちら側の先生と同じなんだなあ。
 そして別の時間軸における同一存在であるからこそ、こちら側の先生はプレナパテスの視点を回想シーンとして追体験できる。シロコがシロコテラーの記憶を読み、アロナがプラナをシッテムの箱に招聘できたように、ふたりの先生は互いにシンクロし、プレナパテスの世界の物語がこちらの世界と合流する。プレナパテスの世界はもはや修復不能だが、それでもシロコとプラナを連れてくることでひとりでも多くの生徒を救い、物語を続けるということに成功している。

「合流」の話なんだよな(詠嘆)

責任について

「責任」という言葉はブルアカのメインストーリーのキーワードであり、かつこのゲーム独特の使われ方をしている言葉だ。言ってみれば生徒の尻拭い、最後の責任を取るということこそが大人の仕事であり存在意義なのだと先生は語る。
 先生は生徒たちの起こした様々なトラブルの責任をすべて引き受けて己に帰責させる。先生のスタンスは究極の自己犠牲だ。プレナパテスもシロコの行為の責任を自ら背負い、そしてその責任の落とし前を別の時間軸の自分に託す。託されたこちら側の先生は、最後の脱出枠をシロコ*テラーに与えていっさい迷いなく自己犠牲の道を選ぶ。
 この展開は、最終編3章のケイとアリスの関係の再演だ。違うのはケイとアリスがそれぞれ互いを生かすために自己犠牲を選んだのに対し、ふたりの先生はともにシロコを助けるために犠牲の道に進んだこと。どちらの行動も等しく尊い精神の産物だが、子供と大人のスタンスの違いが現れている場面ともいえる。

帰責について

「責任」という言葉は他にも重要な役割を果たしているように思う。最終編1章でフランシスが「脈絡、構成、ジャンル、意図、解釈」の「破壊」を宣言した。シロコ*テラーの侵攻はまさに「学園都市」としてのキヴォトスの概念に対する侵攻でもあった。実際、4章までの展開ではロボットバトルがあったり、SFがあったり、エヴァンゲリオンがあったり……とやりたい放題の展開が続いた。
 プレイヤーとしてはそれはそれで面白かったわけだが、やはり話を終わらせるためにはこうした混沌を収束させなければならない。鍵を握るのが「責任」だった。
 プレナパテスの回想シーンによって、それまでのプレナパテスやシロコ*テラーの行動が「責任」という概念によって説明できるようになる。そしてその「責任」はこちらの先生にバトンタッチされた。こうしてシロコ*テラーの起こした一連の事件が「生徒が起こした問題の責任を先生がとる」というブルアカで何度も見てきたおなじみの展開に再解釈される。こうなればもうあとは簡単だ。先生は「責任」を取ることにかけてはプロだ。先生は迷いなくシロコ*テラーを地上に転送し、責任をまっとうすることができる。
 つまり、プレナパテスと先生の行動は、混沌化したキヴォトスを再び学園都市に戻すために、色彩あたりのややこしい話をいったん抜きにして学園ドラマとして再解釈する行為でもあったといえる。その鍵を握るのが責任であり、プレナパテスから先生への「帰責」のバトンタッチだった。

けっきょくフランシスはなんだったんだ

奇跡について

 先生は(基本的には)人格者だが、決して強い力はない。責任を負うことはできるが、先生が先生であり続けるためには生徒たちとアロナの協力が欠かせない。天空から落下する先生を助けたのはまさしくそれだった。
 ここの演出がまた……巧すぎる。エンドロールがあるスマホゲーム自体は珍しくないけれど、落下していく先生の軌跡と合わせるかたちでスチルとスタッフ名が流れていくのは完璧な演出だった。
 エンドロールというのは名簿を上から下へと流していくもので、その流れが先生が落下していく画と重なり合っている。さらにいえば、キヴォトス各地から生徒たちが空を眺める様子が、まさしく最終編で繰り返し描かれてきた各所から赤い空を眺める場面との対比になっている。
 
完璧としか言いようがない。

さすがに無理があるだろと思いつつ勢いで感動してしまう豪腕タイトル回収

その他もろもろ(雑記)

 ストーリーの大筋についてはそんな感じだが、まだわかっていないことも多いし、今後の布石っぽいところもあるし、細かいところを語りだすときりがない。個人的には無名の司祭まわりの掘り下げも面白かったけど、そのへんはストーリーとしては傍流だからあんまり語ってもな……
 ゲームシステムを活用した演出はほんとうに秀逸で、EXスキルを使った主砲発射はともかく、そのあとに転送までやらせるとは思わなかった。転送可能人数が表示された時点でシロコ*テラーを使ったトロッコ問題きたな……と思ったけど、こういう演出でくるとはまったく予想できなかったし、やはりゲームという媒体への理解がおそろしく深い。
 Unwelcome Schoolアレンジは、これまでもネットミームを間接的に取り入れてきたブルアカだからこそなせる技だった。そもそも曲が良いというのもあるけど、多くのプレイヤーが過去に非公式のMADやらアレンジを見聞きしているという前提があるからこそ、いっそう味が深まっている……。
 プレナパテスのカードは……使っても良いんじゃない? それで新しい生徒を呼べるなら、プレナパテスの世界もこちらに合流したという証だし。まあ新しい生徒が呼べるとは限らないんですけどねアロナさん。

終盤の畳み掛けにばかり目が行くけどここも名場面だった


色彩について(蛇足)

 最後に考察もどきです。特にオチはありません。
 色彩に触れた生徒は不可逆になるという話から、色彩=生徒の急激な成長を促すものなのかなと思っていた。実際、シロコ*テラーは精神年齢はシロコのまま、肉体だけ成長させられた状態っぽい。
 さらに4章を読むと、シロコ*テラーはアビドスの離散という惨劇に対する絶望や怒りから色彩に接触するに至ったようなので、色彩には生徒の精神状態を固着させる効果がありそう。おそらく成長を終えた状態=変化の可能性がなくなった状態であって、それが先生の主張する「生徒は何にでも望んだ存在になれる」という見解と真っ向から対立しているのではないか。「色彩」というネーミングも「レッテルを貼る」的なイメージなんですかね。
 そう考えると嚮導者になった後のプレナパテスがおそらく完全に自由意思を奪われてATMにさせられていたのも、「色彩によって齎された大人の成長=死」ということなのかなと思った。
 とはいえ、成長後であってもシロコの精神年齢はまだ子供のようだし、色彩接触後に元に戻す方法もあるっぽいし、大人だってなんなら成長することができるので、色彩の固着力も絶対的なものではないのだろう。

(おわり)


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