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ブルアカの「七つの古則/ジェリコの古則」について

 ブルアカ最終編3章までのネタバレを含みます。


§2「理解できないものを通じて、私たちは理解を得ることができるのか」
§4「楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか」

七つの古則

 ブルアカのストーリーの要所でこれ見よがしに語られるのが「古則」である。最終編3章までの時点では2番目と4番目しか語られていないが、今回はひとまずこれについて考えていきたい。ストーリーの考察というよりは、古則を通してブルアカのストーリーを改めて読んでいこうというくらいの気持ち。
 お遊びに近い文章なのでくれぐれも真に受けないでください
 あと、前提としてシッテムの箱の起動時に出てくる「七つの古則」といわゆる「ジェリコの古則」は同じものと考える(じゃないとわけわからなくなる)。

命題の検討

 まず大前提を確認したい。
 今のところ明らかになっているふたつの古則はどちらも「〜できるのか」という疑問形だ。しかし「則」とはつまり「法則」である。「〜できるのか」という文言は命題としては成立しているが、解がない。よってこれだけでは「則」として不完全ではないか
(類似の概念としてミレニアムで検討されているという7つの「千年難題」がある。「千年難題」と「古則」が同根であるという可能性は否めないが、いちおうこれらを区別して考えるとすると、解が見つかっていない「千年難題」との対比としても「古則」は明確に解が存在していると考えるのが自然だろう)。
(追記:「古則」はもともと禅宗用語で「公案」とセットで用いられることが多く、公案という言葉は「問答」あるいは「問」単体を指して使われるので、古則に命題だけが書かれていること自体は用語法としておかしくない)。

 この疑問については次のような解決が考えられる。「〜できるのか」という文言は「〜できるのか、いやできない」という反語を黙示している。つまり、「楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか」という文言は「いやできない」という解を内包しているのではないか、解も含めて古則なのではないか、ということだ。
 これはエデン条約編における古則の解釈からも裏付けられる。エデン条約編でセイアは第四の古則を「エデンに辿り着いたものが帰還することはないから、エデンの存在を証明することはできない」(逆に帰還するものがいるとしたらそこはエデンではない)と解釈している。これはやはり「楽園に辿り着きし者の真実を証明することはできない」というところまで含めて古則であるということを示している。

 このように考えると、第二の古則「理解できないものを通じて、私たちは理解を得ることができるのか」についても「できない」という解があると考えられそうだ。
 第二の古則については「目的語(何の理解を得るのか)を欠くため命題として不完全である」という指摘が作中でなされている。つまり第二の古則は「理解できないものを通じて、私たちは”X”の理解を得ることができるのか」と置き換えることができる。そしてこの文章は論理的に次のように置き換えることができる。

「理解できないものを通じて、私たちは”X”の理解を得ることができるのか」①
⇔「理解できないものを通じて、私達が理解できる”X”は存在するのか」②

 ②の文をさらに日常言語風に変換すると「理解できないものによって、なにかを理解することができるのか」と翻訳できる。このようにしてみると第二の古則は目的語を欠いているからといって命題として成立しないわけではなく(情報は少ないけど)、いちおう成立することがわかる。
 そして上述の通り、古則が反語文であるとの仮説に基づけば、第二の古則は「理解できないものによって、なにかを理解することができるのか、いやできない」という意味であるといちおう解釈できる(ただし後述の通り、この解釈には疑義がある)。

物語との関連性

 エデン条約編においては、相互不信による破局が物語のテーマとなっていた(過去記事参照)。特に3章では、ゲヘナとトリニティの致命的な破局を回避するための補習授業部をはじめとする生徒たちの奔走が、「存在を証明できないエデンをただひたすらに信じる」という先生のスタンスと重ね合わさるように描かれていた。

 ここでは第四の古則を通じて、「エデンの存在は証明できない→だから信じるしかない」という結論が導き出されているように思われる。
 しかし「信じる」というのは非常に難しいことだ。特に万人の万人に対する闘争状態にあるキヴォトスにおいて、相手を信じれば常に裏切られる危険を伴う。他者を信じるにはどうしたらいいのか。
 その答えは第二の古則に見出すことができるのではないだろうか。上述の理解だと、第二の古則は「理解できないものによって、なにかを理解することができるのか、いやできない」という意味になる。「理解できないもの」とは「他者」である、ということが連邦生徒会長とリンの会話の中で示唆されている。第二の古則は、本質的に理解不能な他者を通してなにかを理解することの困難さを示している。(このへんの話はかなりエヴァ)。
 もっとも第二の古則については単なる反語文と考えるべきではないのかもしれない。連邦生徒会長とリンの会話で示されているように、私たちには「理解しえない他者を通じて、自己を理解する」という道がある。語り得ないものについては沈黙しなければならないが、語り得ないものとの接触を通じて己を語ることは可能なのだ。

「理解できないものを理解することはできない」けど「理解できないものを理解しようという試みを通じて別のものを理解することはできる」ということ

 そしてそれを体現しているのがアリスとケイという存在だ。アリスとケイは本来同一の体に属する一個の「己」だけど、それでいながらも互いに理解することのできない「他者」でもある。ケイとアリスはともに相手との対話を通じて自分の望む在り方を見出し、ふたりとも自己犠牲の道を選択する。結果として舞台から去ったのはケイだけであったが、このふたりはともに「理解できないものを通じて己を理解した」のだ。

振り返ってみるとエデン条約4章のこのへんもずっと相互理解の話をしていたんだな

結論

 そういうわけで、古則について解を補って改めて書き直すと次のようになる。

§2「理解できないものを通じて、別の何かを理解することはできる
 (特に、私達は他者との対話を通して自己を理解することができる)
§4「楽園の存在は証明できない
 (そして、私たちは証明できないものについて信じることしかできない)

 残りの古則がわからないのでなんとも言えないが、おぼろげながらブルアカのやろうとしていることが見えてきた気がする。

(蛇足)世界観について

 個人的にいわゆる「ループ説」は支持していない。いろいろ理由はあるけど、まず根本的に、ループというのは同じ時系列を繰り返し経験するようなものをいう(ex.エンドレスエイト)わけで、ブルアカはそういう構造ではない。ただ、作中で平行世界や多世界/次元解釈が繰り返し言及されているところをみると、いわゆる「世界線移動」が絡んでいる話なのは間違いないと思う。
 そして世界線移動がテーマになっていると考えると、第四の古則の「楽園に辿り着く」という部分も、そういう文脈で理解することができそう……だけど牽強付会かもしれない。
 まあ、ブルアカの制作陣がそういう世界観考証の部分をどれだけ真面目にやろうとしているのか未知数なので、こういう思考は無意味かもしれない。個人的にブルアカがやろうとしていることに一番近いのは形態形成場仮説なんじゃないかと思うけど、これも戯言だ。
 そもそもループと世界線移動ってどう違うのというふうに思われるかもしれないが、このふたつはまったく違う。そういうのを語りたいひとに向けては、参考書籍として以下の本がおすすめです。


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