『ドルフロ』VA-11 Hall-Aコラボ感想──最高のコラボシナリオをありがとう
『ドールズフロントライン』VA-11 Hall-Aコラボイベント(復刻版)感想
🍸イベントシナリオの仄かなネタバレをします
ドルフロ屈指の名シナリオとして知られるVA-11 Hall-Aコラボが二年ぶりに復刻された。ドルフロはなぜかイベント回想がなく、シナリオを読み返すにはネット上に個人がアップした動画を見るとかしないといけないので、復刻はすごく貴重な機会だ。(それはそれとしてイベント回想つけてくれ!)
上の記事は前回開催時に書いたものだ。当時はストーリーの大枠だけつかんで満足してしまっていたのだけど、今回改めて読み直してみるともっとシナリオの細部にたくさん見どころがあったなあと思った。単に話の作り方が上手いという以上に、すごく原作VA-11 Hall-Aに近い語り口だとか、問題意識だとか、そういうところにこのシナリオの妙味はあるのかもしれない。改めて読んでみてわかったが、これを書いたひとはドルフロとVA-11 Hall-Aのことを本当によく理解しているのだと思う。
特に再読して楽しかったのはバーテンダーパートのエピソードだった。
🍸戦術人形たちの悲喜劇
バーテンダーパートではかなり切り込んだ話をしている。例えば、Ots-44の話では「好き」という感情が人為的に(あるいは文字通り機械的に)引き起こされてしまうという可能性が説明されている。
電柱を好きになったり単語を好きになったりしてしまうOts-44の様子はすこしコミカルだけど、問題はけっこう根深い。私たちは「感情」や「気持ち」こそ本質的で嘘のないものだと考えがちで、それこそ「自分の心には嘘をつけない」なんて表現もあったりする。だが、人間の感情にしたところで脳内の電気信号に過ぎないわけで、鬱病になれば塞ぎ込むし、酒を飲めば曖昧になれる。けっきょく感情というのはその程度のもので、機械と同じようにときには「誤作動」や「故障」も起きてしまう。
だが、感情が不確かなものだとすれば、私たちはどうしたらいいのだろう。誰かを好きになったとしても、それは心のバグかもしれないし、気の迷いかもしれないし、何か別の感情をそう勘違いしているだけなのかもしれない。そう考えるとすこしぞっとする。
もうひとつ重要なエピソードとしてGr G36のエピソードがある。自動掃除機と衝突してしまったG36の記憶が掃除機と入れ替わってしまい、G36(掃除機)とG36(本物)が口論を始めたかと思いきや、されにそこにもうひとりのG36が登場し──という話だ。
これはアンドロイドであり、かつ「ダミー」という群体構造を採用している戦術人形ならではのアクシデントだといえる。Ots-44の話と同じで表面的にはコメディだが、やはり深遠な問題をはらんでいる。私たちは「記憶」によって世界を認識できている。もし記憶が改竄されてしまったら、それこそ五分前仮説や眠り姫問題の世界に迷い込んでしまう。私たちの生活は「記憶が弄られたりしない」という大前提なしには成り立たない。だからG36の話もちょっと怖いところがある。
そもそも戦術人形は(AR小隊など一部を除き)記憶のバックアップが作成されていて、戦場で大破しても復元可能なメカだ。ダミー同士でも記憶の共有ができるし、それこそバックアップなしに破壊されたとしてもいちおう物理的な復元という形での蘇生は可能だ。基本的にかれらに「死」の概念はなく、だからこそかれらにとって「記憶」の連続性は生死よりも重大な問題なのだ、と考えることもできそうだ。
だとするとG36が置かれている状態はかなり残酷だし、危険だといえる。特に3人目のG36が二人目に対し「お前はトースターだ」と言い放つ場面は、当人にしてみればたまったものではない。
とはいえ記憶のやりとりはデータ上で可能なので、交錯した記憶を元通りに戻すことはかんたんにできるだろう。でもそうやって復元した記憶が、はたして過去の記憶と連続性を保っていられるのだろうか。
それこそ、自分とまったく同じ記憶を持ったコピーをコンピュータ上に作ったとして、そいつは自分といえるだろうか。データの上では同一だとしても、そいつは自分と連続性のある個体だといえるだろうか。
そうしたことを考え始めると、このエピソードは非常に根深い。トースターや掃除機たちがその後どうなったのかというのも気になるところだ。
🍸「まやかし」と現実の間で
以上のように、バーテンダーパートでは様々な疑問がプレイヤーに投げかけられていた。そしてこのシナリオの素晴らしいところは、後半の展開でそれらの疑問に対するアンサーを用意しているところにある。
上述の記事でも引用したのだが、VA-11 Hall-Aという作品の真髄はドロシー・ヘイズの以下の言葉に集約されると思う。
私たちの記憶は作り物かもしれないし、この感情は単なるバグにすぎないのかもしれない。でもそれでいいのではないだろうか。
上に引用したドロシーの言葉が包含しているメッセージは、けっきょくのところ「当たり前のことを当たり前に尊ぶ」という話なんじゃないかと思う。記憶や感情なんていうものは、ふだん生活しているうえで特に意識するものではない。森博嗣ではないけれど「記憶とはなにか?」「感情とはなにか?」という哲学的な疑問を抱いたときにだけ、そうしたものは問題になるのだ。
つまり記憶とか感情とか、そういうものは私たちが生きているうえでの大前提──当たり前のものであって、そこを疑い始めても仕方がない。そんなことよりも、当たり前のことのシンプルな美しさや尊さのほうがずっと大切だ。
誰かを好きでいることは楽しいし、もし相手も自分を好きでいてくれるならなお嬉しい。そういう単純な心の動きがたとえバグだとしても、別に私は構いやしないし、知ったこっちゃない。たぶんドロシーやジルだってそうだろう。
コラボシナリオはジルたちが戦術人形としてグリフィンにやってくるところで終わる。かれらは元々あった世界からコピーされてきた人格であって、正確に言えば原本ではない。だがそもそも、かれらがいたグリフィンシティ自体が416とジルの夢が作り出したものであり、いわば「現実の似姿(コピー)」だった。こうなってくるともうコピーだとかオリジナルだとかは関係ない。そんなことよりも、ここにかれらが一堂に会したという事実の楽しさのほうがずっとずっと重要だ。
物語ラストの大団円。こんなにややこしい話を扱っておきながら、一点の曇りもないハッピーエンドに持ち込んだシナリオライターの豪腕には頭が下がる。
🍸偽典の帰還──フェイクとハバネラ
シナリオを読んでいて、FGOのイベントのことも思い出した。今年冬に開催されたエルメロイコラボの追加シナリオ「偽典の帰還」のことだ。評判の良いシナリオだったので知っている方も多いのではないかと思う。
「偽典の帰還」でクローズアップされたのはサーヴァントの記憶の連続性の話だった。Fateという作品においては、各時代の大英雄が「英霊」として世界を救うために召喚される。英霊は生前の記憶を概ね引き継いでいるが、過去に召喚された記憶についてはデータとしては知っているものの体験として知っているわけではない。そういう意味ではFateにおける英霊たちはドルフロでの戦術人形に似ているところがあるかもしれない。
記憶は必ずしも継承されない。伝説は忘れ去られるかもしれないし、物語は誤読されていくかもしれない。だがそれでも残るものはあるはずだ──そんな希望を探るのが「偽典の帰還」という物語だった。そのメッセージはイスカンダル王の伝説を語り継ぐために生き続けているロード・エルメロイⅡ世という男の在り方とも重なる。Fateシリーズの良いところが詰まった脚本だった。
閑話休題。「偽典の帰還」はドルフロのコラボシナリオに比べるとちょっとストイックすぎる気もしないではない。上述の通り、VA-11 Hall-Aのメッセージは「当たり前のことを当たり前に受け取る」というところにあった。両者は記憶や感情の枷を了解しつつ、なおその尊さを語るという点で通じるところがある。違いがあるとすればVA-11 Hall-A(ドルフロ)の方は記憶や感情の枷を決して悪いものだとは考えず、むしろそれを楽しもうとするような稚気を持っているというところだろう。
私たちは不確かな世界を生きているけど、決して心地の悪いものではない。私たちの記憶も感情も、まったく不完全で欠陥だらけだけど、それはそれで面白い。偽物も本物も入り乱れて、ハバネラを踊ろう。酒が入ったら、それくらいの無礼講は許される……よね?
(おわり)
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