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適材適所と勝敗と

夜走っていたら、生産性と知能障害について考えていた。
生産性の高い人間は金銭的な価値があるのかもしれない。だが知能障害の方は知能の面で障害を持っている。
つまり障害を持っていなかったら同じだけの金銭的価値があるんじゃないかと思うわけである。

そんな事を考えていると、生活に必要なお金やら何やらは共同体に属しているなれば、無償で提供じゃないと人間的な価値が下がったり上がったりみたいな感じに見えてきてしまう。

こう言ったことはどこでもう少し詳しく学べるのか。誰か詳しい人がいたら教えて欲しいもんである。

何故こんな考えになったのかと今思い出したんだけど。
この画像である。

日本の受刑者の知能指数

つまり刑務所ってところは知能指数で篩にかけられた先に存在していたのかと思った。
確かにそしたら安く働かせる事が出来る。

でもおいらは刑務所の中でどんな仕事をしているのかは知らない。
とりあえず非常に安い人件費の更に安い部類として仕事をするもんだと思っておる。

昔観た映画で、マイケルムーアさんが世界侵略するような触れ込みの感じのなんかそんな感じので観たんだけど、ノルウェーの刑務所の部分がすごく心に残っている。

ノルウェーは緯度が高いと言うか、確か緯度が高い程脳が大きいとかなんとか昔から言われていた気がする。まぁ必然的に知能指数も上がる。

おいらは知能指数の話ばっかりしてるけど、それはやっぱり何年も相模原事件に納得がいってないからでもある。

そんでもってノルウェーの刑務所は非常に人権が尊重されていて、人を人として信じられていて、素晴らしやと思ったんだけど。
全ての地球上の動物は人間より知能指数が低い訳で、まぁ動物より低かったら飼ってあげないといけないのかもしれない。その辺は法律知ってたらそうならなそうだけど、わしは法律の観点は持っていないから飼う視点になるといえる。人間を飼うのだ。
言葉にするとおそろしや。

たぶんそれを違う言葉に置き換えて呼び合ってるけど、結局やってる事は飼っていることなんだろうとは思われる。

こうなるとどこからが人間なのかと思う。

人の形をしていても中身が猫だとしたら、確かにお金を使ったりして生活するのは難しい。
逆に形が猫で中身が人間だったらどうだろうか。
そうとうかわいい気がする。

その猫がかわいさを通り越して結構人間だとしたら、何か求めてきそうでもある。
自分には〜する権利があるとか、アメリカ人みたいな事を言いそうではある。

そうなると結局争いになるかもしれない。

果たしてこの争いは頭が良い方が勝つのだろうかと考えてみる。

どっちにしても生産性が高い者が儲けて、知らない間に知らない場所で祝っているのかもしれない。

優越感は個人的にはあまり感じたくないなと思っている。私はそうゆう世代の人かもしれない。

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