noteに真摯にコメントをつける
最近、気になるnoteにコメントをつけ始めた。
noteをはじめた当時、ぼくは書くことだけに徹するつもりだった。なぜなら過去それらのやりとりに疲れた経験があるからです。
2000年代初期、ブログが流行り相互フォローやコメントを付けあったりトラックバックする行為が増えました。私も2004年くらいから色々なサービスでブログを書き、たくさんのネットの人たちと交流しました。
その当時、自分が書いた文章に「コメント」が付くことはとても新鮮で、ネットの世界に仮にでも認められていることに喜びを感じました。そしてその喜びをさらに感じたくなり、より多くのコメントをもらうための活動に精を出しました。
具体的には、気になるブログをフォローしまくり、コメントを片っ端から付けまくる。大して記事を読んでもいないのに「参考になりました!」「勉強になりました!」「とても興味深い記事ですね!」とひたすら書いてたような気がします。
結果的にコメントを残すと相手は自分のブログに訪れます。よければ相互フォローもしてくれますし、自分のブログにもコメントを残してくれるようになります。
しかし、この関係性に持続性がありませんでした。例えるなら建前だけの年賀状のようなものです。
年賀状はもらったら一応送り返さなければ、という気持ちになり1年に一度も話をしていない人でももらえば返信する。しかし、喪中だったり引っ越しが重なったりで一度連絡が途切れるとそのまま音信不通となることが多い。
ブログの関係もこれに近い。相手からコメントをもらえば返してくれるけど、コメントし続けなければ自分のブログに訪れることなくアクセスは減り、コメントも減っていくのだ。
要するに「返報性」という人間心理を利用したアクセス稼ぎでしかなかったのである。
なぜそうなったのか?
単純にコンテンツがつまらなかったからである。すごく単純だけど、とても気づきにくい。
飲食店に例えるなら、友達のお店に食べに行きまくって、「美味しいね!今度ウチにも食べに来てよ!」と言いまくり、実際人を呼び込んだはいいけど、「なんだ、全然美味しくないじゃん!」という感想を持たれてしまい、二度と来てくれなくなる感じだ。要するにリピートするに値しない価値だったということ。
それを長年ブログを続けて学び、そして疲れた。だから最近のブログでは気に入ったモノを一方的に紹介する記事しか書いていない。
そんな時noteに出会った
やはり、今書いている個人ブログのように「書く内容が制限される」ことに少なからずストレスがたまっていたんだと思う。けど書くことは好きだから長年ブログは続けてきた。
そんな時、noteというサービスに出会い驚いた。
ただ、書きやすい。
ただ、書くことに集中できる。
ネットの世界は自由だから好きなことを書こうと思えば別のメインで新しい個人ブログを立ち上げればいいのかもしれない。けど、それでは自由すぎるのだ。
やはり、文字を書き続けていて思うのは、「場」によって書きたくなる気持ちと書きたくなることが違うということ。自由すぎることは何を語ってもいいが、まったく誰にも届かない可能性の方が高い。通勤電車でいきなり自分の思いを話し始めるようなものだ。
しかしnoteは違った。みんな形のある自由の中にいた。エッセイ、日記、小説、マンガ、写真、動画など、一見するとブログと変わらないのだが、みんなの「想い」や「考え」がリスクフリーで表現されていた。
だからぼくも「想い」をただ、書き始めてみた。
そして最近、記事にコメントが付きはじめた。単純にやっぱり嬉しいのだ。
ぼくは昔から授業中ノートに好き勝手絵を描いたり、思いついたアイデアなど書いていた。それは誰にも見せる必要はないし、自分の中だけの世界でいいと思っていた。けど、心の中にはせっかくアウトプットした内容に「何か」反応してほしい気持ちが少なからずあったんだと思う。実際授業中に書いた絵を友達に見せてフィードバックがもらえると、嬉しくて「次も描こう!」という気持ちになった。
だからぼくも数年ぶりに「コメント」してみようと思った。
純粋にアクセスを稼ぎたい、フォローしてほしいという気持ちではなく、この好きになったnoteという「場」を楽しんでみたくなった。
ぼくが「場」を楽しむということは「書くだけ」ではなく、相手のコンテンツそのものに対して真摯にコメントしてみるということだ。そこに決して「返報性」を求めてはならないと心に決する。なぜなら、それを心の中で求めてしまったら相手のコンテンツへの純粋な感想ではなく「裏」のあるコメントになってしまうからだ。
長年の経験をまた繰り返したくはない。だから「書くこと」も「コメントすること」も純粋さと真摯さを持ち合わせてこのnoteの「場」に付き合っていこうと思った。
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