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慰安婦 戦記1000冊の証言4 ジャングイ兵長

 中国での慰安所設置について、さらに証言を続けよう。
 昭和18年ごろ、支那駐屯歩兵第三連隊の第10中隊下士官の証言。場所は中国・揚店子鎮。
「一個大隊以上の兵力が駐屯している所には、必ず売春婦が付随している。ほとんどが朝鮮人で、主人公は女が多い」「我が大隊がこの付近の治安維持のために揚店子鎮に移動」の際も、「彼女等は我等の大隊に随行していた」
「大隊本部の偉い人から『お前は暇だからピー屋を作れ』と指示された。
実をいうと、私の任務は大隊本部の炊事責任者(兵長)で、炊事以外はあまり用のない存在だった」
「兵隊達の一番楽しみにしている娯楽センターのピー屋が手つかずにあるので、その部屋造りに本部で一番暇な私に白羽の矢が立ったというわけだ。
『女郎屋作りに日本の兵隊はやれないから、支那側の兵隊(馬賊帰順者)を使え』ときた」
 彼らと共に近郊の大きな部落に行って村長を脅しあげ、「約2週間、毎日のようにこの部落にピー屋を作るための資材集めに出かけて行った」。「兵舎が出来るよりも早く2軒のピー屋が(兵舎の外の街中に)完成し、早速営業を始めた」
「私はこの功績によって、女郎屋のジャングイ(主人)にのし上った。全部で15名程いたお姐さん達のサービスのよいこと。女将から言い聞かされているのであろう。誰を選んでもただだった」(1)

“李香蘭”に援けられ

 昭和20年5月ごろ、独立歩兵第194大隊大尉の証言。
「連日陣地掘削に追われている兵士たちには、なんの楽しみもない僻地のことである。とうとう、ある大隊で、兵隊が部落の老婆を犯す事件が発生したと伝わった。
 軍紀の乱れを心配された旅団長は、高級主計の少佐に、慰安婦を徴発するよう命じられていたが、実現できなかったと、大隊長から伝えられた。
 大隊長は、旅団司令部はあてにできない、大尉、なんとかやってくれと命じられた。難しい仕事だが、命令とあらばやるよりほかない。
 通訳の上等兵と、現地召集で入隊したばかりの、済南で旅館を経営していたY一等兵、同じく天津の日本租界で料亭支配人をしていたZ一等兵の3名を同行して出発した。
 済南でY一等兵の旅館(主人応召で休業中)に立ち寄り、津浦線を北上して天津へ向かった。天津でZ一等兵の料亭『岩倉花壇』に入った」
「天津貨物廠の廠長が旧知のA主計少佐であることを知り、天の助けと喜んだ。この使命は、A少佐のお力で無事達成することができた。
 20名の慰安婦を連れて済南へ戻り、Y一等兵の旅館に泊る」「ここで、女たちが親方から聞かされていた話―済南で一か月交代で営業―と違うと騒ぎだしたのを、何とか説得」
 実は、「女たちの中に日本語が出来る娘がいた。名前はなんと“李香蘭”。本名だという。彼女のおかげで女たちとの意思疎通が円滑になった」(2)
 無事に帰隊できたそうだ。

 昭和19年12月、広西・柳州近くに駐屯していた独立輜重兵第4聯隊第3中隊幹部の証言。

「聯隊本部に慰安所を作ろうという計画が持ちあがった。本部の准尉が主になって相談に来た。私は郷長に話を持っていき、郷長、准尉、私と3人で柳州の街まで慰安婦を探しに出掛けた。
 柳州の夜の街は暗くて、細い路地を3人で歩きながら警戒しつつ、一軒の家にたどりついた。
 薄暗い土間に灯芯の明かりに、40歳位の背の高いすらりとした女が立っていた。郷長はさも昔からの知り合いのようで、何か楽し気に語らいながら梯子を登って二階に消えた。
 残った准尉と私は不安ではあったが、しばらく待った。やがて郷長が下りて来て、7人ほど確保できそうだ、今晩はもう帰れないから明日連れて行こうという。我々は郷長に何度も頭を下げた」
「こうして聯隊本部の慰安所は出来上がった」「この女達は日本軍の進攻に追われて湖南省から逃げて来た女達で、省が違えば異国人のように敵対心の強かった広西人が、無理強いした素人娘の慰安婦であった」(3)

「無理強い」か。こんな慰安婦集めも「無理強い」したのだろうか。
 昭和16年ごろ、場所は中国・嶺河口。
「嶺河口警備隊長は、移駐と同時に慰安所の開設を計画、現地で希望者を募った。治安維持会を通じて人集めにかかり、娘60名の獲得に成功した。
 しかし、軍医検診の結果、合格者は1名もなく、結局慰安所開設はご破算になった」(4) 

 続いて、昭和19年、湖南省永安の「慰安婦分隊」設置について、金沢連隊の暗号班長勤務者の証言。
「永安の町もすっかり治安が治まり、特に憲兵隊がきてからは、兵隊たちのいたずらもなくなって、町はますますにぎやかになってきた」「休養も充分となり、衣食も足りてくると、どうも若い女が目についていけなかった。
 こうしたことは、軍の方では先刻お見通しである。部隊が警備へつくと、その後から必ず慰安婦がついてきた。このころ、ここでも慰安所ができることになった。
 或る日、一等兵が使役からにこにこしながら帰ってきた。聞くと、今日の使役は慰安所作りであったということである。林から竹を切り出して、郊外の畑の中へ掘っ建て小屋を作り、あんぺらの覆いをかける作業をしてきたということであった。
 小屋が出来上がると、庶務係から使用券が配給になった。勤務にさしつかえない者がくじ引きで行くことになっている。店が開くと、100人以上の兵隊たちの行列ができた。暑い炎天をも苦にせず、前の連中の遅いのをぶつぶつ言いながら、根気よく待っていた。
 中支方面へ慰安所の商売でくる人は、たいてい九州出身の人であった。日本人の慰安婦1、2名と、朝鮮の娘4、5名連れてきた。これらの娘たちは貧民の娘で、甘言に誘われて、ほとんど徴用のような形で連れてこられたものらしい」(5)

 日本軍として、慰安所設置命令があり、担当者が慰安所設営、慰安婦集め、慰安所運営、慰安所の指導・監督まで、すべて担っていた。まさに日本軍「慰安婦分隊」である。

「慰安婦分隊」への歓迎の声ばかりではない。昭和16年7月、満州・老黒山に開設された第84兵站病院関係者の嘆きの証言を聞いてみよう。

「私どもが老黒山本村といっていた部落にも小学校があり、長野県松本出身の青年教師がいました」「満州語がペラペラで誠実で熱意のある好感の持てる青年で、1回の面接で意気投合、大いに語り再会を約して帰りました。
 さて、次に訪問した時は、その学校は軍に接収されて、なんと皇軍慰安所になり、学校は狭い民家に移転させられてしまいました。
 日本の植民地政策はこれ一つでも大失策、排日、抗日の声の高まるのは必然なりとがっくりしました」(6)

 同じ満州・東寧の昭和17年ころ、関東軍経理部東寧派出所(東寧満州第39部隊)の軍属・女性タイピストの証言。

「町へ行ってびっくりしたのは、『軍慰安所』と書いた所の多い事、中をのぞいて見ると、私達の遊ぶようなところは何もなく、男の人の遊ぶ所でした。
 うすぐらい部屋のような所が、せまい通路をはさんで両側にあるだけで、中から兵隊さんが出て来たかと思うと、朝鮮の女の人が厚化粧して出て来て、『また来てね、待っているわ』と手を振って見送っているのです。
 兵隊さんは私達が見ているからきまり悪そうでした。
 面白いので2、3軒見て廻りましたら、満人の慰安所もあり、こんな国境の果てまでこんな施設があるなんて、全く信じられませんでした。まして日曜日等、兵隊さんが行列しているのに呆れ果てました。
 子供の頃、修身で肉弾三勇士、広瀬中佐と杉野兵曹長のお話を聞き、兵隊さんはお国のために命を捧げて働く偉い人と教わり、その人達と一緒に働けることを誇りに思っていたけれど、その夢が一瞬にして破れてしまいました」(7)

「がっくり」「びっくり」の「日本軍の恥部」は、隠しようもないほど、戦地に広がっていった。

早手回しに

 海軍の「慰安婦分隊」も、ひとつ見てみよう。
 昭和14年、中国・汕頭での司令艇「駆け出し」海軍軍医中尉の証言。
「ある朝、司令に呼ばれると、『軍医長!』厦門から慰安婦が来たから、早速検診をやってくれ、という命令である。
 戦争の裏に女ありとは聞いていたが、こうも早手回しに、占領したばかりの汕頭に慰安所ができようとは思いもかけなかった」
「こんな戦地まで流れて来る女は、よほどすれっからした女郎か何かだろうと思っていたら、意外に若くてナイスな日本の女が7、8人」
「とにかく急造の診療台代わりの椅子に一人宛のせて、形ばかりの診察をやってみた」
「16、7の若い娘で、立派にヒーメンを備えている女がいたのには、少なからず驚いた」
「性病に罹患している女は一人もいないとわかって安心したり、感心したりして、司令に報告した」(8)

《引用資料》1、支駐歩三、第十中隊「支駐歩三、第十中隊の歩み」私家版・1985年。2,新野博「黄塵茫々―独立歩兵第194大隊(幹第1437部隊)想い出の記」私家版・1987年。3、横田泰助「戦塵九星霜」私家版・1979年。4,歩兵砲中隊戦記委員会「まるさ(〇の中に「さ」を書く)虎の子奮戦記―歩兵第231聯隊歩兵砲中隊」私家版・1974年。5、栗原政次著『湖南の戦野』私家版、1976年。6、「第84兵站病院のあゆみ―老黒山想い出会員回想文集」私家版・1982年。7、井尻隆志「東寧―追憶の記」東寧会・1987年。8、余生会「余生随想―思ひ出の戦争体験記集・第3巻」私家版・1963年。
(2021年10月8日まとめ)


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