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法廷傍聴控え 青物横丁医師射殺事件2

 病院だけでなく、医療問題を扱っている弁護士、警察に相談し、ラジオの人生相談にも電話したが、全部、相手にされなかった。

 ──そこから、東医師に対する気持ちはどうなりましたか。
「私の体調がどんどん悪くなっていき、死んでしまう。そのことで、東医師を襲わなければいけないと思いました」
 ──それと東医師を襲うこととの関係はどういうことですか。
「私は東医師にポンプとある化学物質を埋め込まれ、体調が悪くなった。原因をつくったのが東医師。東医師を襲うことが、自分の使命のように感じてきました」
 ──具体的には、どういう方法を使ってですか。
「最初は、スタンガン、包丁、ハンマー、目潰しスプレーなどでやろうと思い、8月中旬ごろ、購入しました」
 ──東医師を殺そうという気持ちがありましたか。
「殺そうとまではいかず、とにかく、襲わなくてはいけないと思いました」
 ──次に、東医師の行動を監視することになりますが、具体的にはどうしましたか。
「1回目は8月29日、東医師の帰りを見張り、通勤の道順を調べようと思いました。以後、三、四回、病院から帰るところを狙おうとしました」

 東医師は病院から近くのJRの駅まで歩き、品川駅で京浜急行に乗り換えて青物横丁駅で下車するのが通勤経路だった。病院近くで待ち伏せしていた矢崎だが、8月29日は東医師と出会わず、2回目の9月2日ごろも、やはり見つけられなかった。
 9月5日ごろ、東医師を発見し、近づいていく。ところが、東医師は矢崎に気づいたようで、走ってきたタクシーを止めて乗っていった。9月7日ごろも待ち伏せしたが、出会えなかった。

 ──最終的には、拳銃を使って襲うことになりましたが、拳銃を使うと決意したきっかけは何ですか。
「9月5日ごろ、東医師に見つかって私の目の前から逃げられたことから、ピストルじゃないとだめと決意しました。もう、近づいて攻撃することができないからです」
 ──拳銃入手のあてはありましたか。
「まったくありません」
 ──どうやって入手しようと思いましたか。
「暴力団の人であれば、何らかのルートから入手できる。暴力団に行ってみれば、なんとか手に入るのではないかと、事務所を探しました」
 ──事務所の場所をだれに聞いたのですか。
「ソープランドの呼び込みをしている店員に聞きました」
 ──その事務所にいつごろ行きましたか。
「9月5日だったと記憶してます」

 矢崎が手術を受けた都立病院の近くにソープランド街がある。その呼び込みから聞いた暴力団事務所は、ソープ街の外れにあった。その日、たまたま、事務所当番をしていたのが、幹部の竹井昇(29歳)である。
 彼も事件後逮捕され、矢崎よりも早く裁判が行われ、矢崎の初公判までに終了した。
 竹井の第1回公判は、95年1月9日、東京地裁で開かれた。がっしりした体格で、黒いジャンパーに黒いジーパン。起訴事実は矢崎にトカレフ1丁と弾7発を売ったというものだが、竹井は、「間違いありません」とはっきりと答えた。被告人質問も行われ、矢崎に拳銃を売った状況を述べた。
 矢崎の供述とあわせて、その経過をたどってみる。

 矢崎の記憶では、94年9月5日、事務所を訪ねたというが、竹井は9月12日という。ほかにも、日にちについては、2人の記憶に食い違いがある。ともあれ、竹井が1人で組の事務所に当番でいたとき、よれよれの着物を着た矢崎が突然やってきた。
「矢崎がスタンガンを見せて、『これよりすごいのないか』と。『何だ』と聞いたら、『すごいもの』という」
 おかしな男だ。やせていたので、「シャブ中(覚せい剤中毒者)と思って追い返した」。
 矢崎の供述では、初対面の竹井に向かって、「どうしても許せない人間がいるので、ピストルを入手したいとお願いした」。もちろん、竹井は信用しない。
 そこで、「運転免許証や病院の診察券、都立病院への質問状とか回答書も見せたり、東医師を狙うためのハンマー、スタンガン、包丁、目潰しスプレーも見せました」。すると、竹井は「考えておくということでした」。
 その後、9月14日、19日と、矢崎が事務所にやってきて、拳銃取引の交渉が続いた。「80万円ぐらいあれば、買える」とからかい半分に竹井がいうと、「それでは、お礼に70万円払う」と矢崎が乗ってくる。
「人にものを頼むとき、まず、金を持ってくるべきだ。30万ぐらいどうだ」といえば、矢崎はそのとおり持ってくる。
 このような交渉を経て1カ月ほど後、10月13日、埼玉にある矢崎のアパートに竹井から電話が入った。「きょう、ピストル買いにいくので、なるべく多くの金がいる」。矢崎は金を用意し、受け渡しはアパートの最寄りのJR駅付近で行われた。
 最初、矢崎は5万円を差し出した。「こんなはした金で拳銃が買えるか。この話はなかったことにしてくれ」と竹井がきつくいうと、矢崎は「どうしてもほしいから、銀行でおろしてくる」といって、近くの銀行に行き、40万円を竹井に渡した。
 しかし、実際は改めておろしたわけではない。矢崎は最初からその金を持っていたのだ。「竹井がなんとなく信用できず、買いに行くのがほんとかどうかわからなかった」ので全額を渡さなかった。
 矢崎もそれなりの駆け引きをしたわけだ。さらに、このとき、矢崎は竹井の携帯電話の番号を聞く。
 それ以後、「お金を渡しているのだから、ピストルをちゃんと探してくれ」という催促電話を頻繁にかける。
 そこで、竹井は、数年前、東京・上野のアメ横で買ったモデルガンを渡して、あとは「(しら)ばっくれちゃえばいい」と考えた。
 10月18日の夕方、都内のJR駅前で落ち合い、さらに70万円を受け取り、リボルバーのモデルガンとモデルガン用の弾も数発渡した。
 ようやく拳銃を手にした矢崎は、早速、弾倉に弾を入れようとしたが、弾がきちんと弾倉に入らない。弾倉自体もスムーズに動かない。すぐに、竹井に連絡した。
 合計140万円も払ったのに、壊れた拳銃では困るとクレームをつけ、交換を求めた。矢崎は強気である。「明日、交換する。拳銃持ってきてくれ」と竹井は返事をした。翌10月19日昼ごろ、組事務所前の駐車場で交換した。

 一方、新たに渡した拳銃がトカレフであった。トカレフの入手先だが、竹井は5カ月前の94年5月ごろ、組員ではないが、組事務所に出入りしている男に80万円貸したことがあった。そのとき、担保としてタオルにくるんだトカレフを持ってきた。
 ところが、その年の7月、その男が肝硬変で死亡する。貸した金はそのままになり、トカレフが手元に残ったという話である。
 しかし、武井は、当初、「イラン人から入手した」と供述し、その後、「名前はいえないが、ある男から80万円で買った」と変更し、さらに、「肝硬変で死亡した組に出入りしていた男」と変転したのである。
 さすがに、裁判官が、「ヤクザの事件では、覚せい剤にしろ、拳銃でも、10件が10件、(入手先が)みんな死んじゃっている。そんな都合のいい話がありますか」と尋ねる。
「私もそう思います」と武井はうそぶく。「だれも、そんなことを信じない。ほんとうですか」と念を押すと、「ほんとうです」と答えた。
 手元にたまたまあったトカレフを、「こどものためにもカタギになろう、拳銃も売っちゃおうと思っていたときで、金銭的にも合うし、まさか、ほんとうに拳銃を使うと思わないし、拳銃マニア的な存在と思った」ので売ったとも述べた。
 矢崎が28日に捕まった後、10月31日、「私が拳銃を売った」と竹井は警察に自首して、逮捕された。
 実は、矢崎は竹井のところに行く前、別の暴力団事務所を訪ねている。しかし、そこでは、拳銃でやらなければならないなどと話す矢崎に対し、「やめたほうがいい。警察に相談したらどうか」などといって、追い払っている。
「いま、こんな安易な私利私欲のために、簡単に素人の人に売ってしまい、服役だけですまされない。生まれつき目とか丈夫なので、アイバンクに登録したい。腎臓や肝臓も登録の仕方を教えてもらい、登録したい。これが、一番の罪ほろぼし」と武井は述べる。

 被告人質問の後、竹井の妻が情状証人として、「自分たちの2人のこどもは東先生のいた都立病院で出産し、世話になって感謝していた。それなのに、このような事件になって、都立病院の院長と東医師の家族あてに謝罪の手紙を出した」などと証言した。

 続いて、検察側が、懲役7年、罰金100万円の論告求刑を行い、弁護側の最終弁論もあり、竹井が、「現在の状況について」と題する上申書を読み上げ、「ヤクザ的犯罪はやめて、カタギになります」と結んだ。

 第2回公判(95年2月2日)が判決だった。判決の前に、弁護人から角膜、腎臓、肝臓の登録承諾書を各機関に送り、実際に登録されたという報告があった。さらに、竹井の住む地区の商店街の人たちの減刑嘆願書も提出された。
 判決は、「金儲けのために拳銃を売った」「拳銃の入手先については到底信用できない」などと厳しく指摘し、懲役6年、罰金80万円であった。退廷する竹井は傍聴席の妻に向かって、「元気でいろよ」と声をかけた。

(2021年10月19日まとめ・人名は仮名)

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