見出し画像

慰安婦 戦記1000冊の証言33 阿波丸事件

 昭和20年3月、「南方各地の抑留外国人、捕虜に対する国際赤十字を通して慰問品を送り届ける船が、内地から来る事になった。阿波丸という貨客船である」
 帰国するには、「この赤十字交換船なら安全なのである。皆が争って、これに乗りたがり、その許可を得た人は喜んだ。その中に朝鮮人の慰安婦もいた」
「彼女たちは、中国各地を日本軍と共に強制的に行動させられ、マレーからシンガポール、そしてスマトラまでつれて来られたのである。とっくに『借金』は返し、年季があけた『自由』の身であった。
 それでも、客をとらされていた。もっとも、雇主も強制は出来ないわけで、嫌いなやつは客にしなかったし、勝手に休むこともあった」
 スマトラのブキ・チンギの「中国人街の坂の上の左に、朝鮮人の彼女たちの宿る一画があった。コンクリートと漆喰でできた家であった。
 彼女たちが、阿波丸の乗船者に選ばれたことに、どんな経過があったかは知らない。しかし、これはわれわれにとっても、嬉しく思われる事であった」
 ところが、20年4月1日、阿波丸は、台湾付近で、アメリカ潜水艦によって撃沈される。「私たちとしては、この船に乗れることをあれだけ喜んでいた、彼女たちの事を思わずにはいられなかった」(1)

 阿波丸事件と呼ばれる攻撃について、昭和19年2月、ブキ・チンギに駐屯する第25司令部に見習士官として配属された陸軍少尉の証言である。
 安全なはずの阿波丸が、米軍の潜水艦に撃沈され、ブキ・チンギの慰安婦も死んだという。なお、阿波丸は「赤十字交換船」ではなく、赤十字船(病院船)に準じた保護を受けられる「緑十字船」だった。

 さて、彼女たちのいたインドネシア・スマトラのブギ・チンギは、「赤道直下で、ソバの花が咲く高原の街である。そこにはスマトラ派遣軍の司令部と飛行場と、その他に南方随一を謳われた有名な料理屋兼宿屋があった。
 マラアッピ―という美しい旧火山を前に、畳の上で浴衣がけで、しかも銀座裏から集められてきた娘達の給仕で、日本酒でもビールでも飲める料理屋である。
 サイパンが陥ち、東京が焼け野原になっても、将軍と参謀共は、赤道直下の『軽井沢』にこういう料亭を作らせて、日夜酒池肉林にひたっていたのである」(2)

 もちろん、下士官兵は、このような料亭は利用不可。慰安所は多数あったというが、そのうちの一軒を利用した兵士の証言。
「ブキチンギに慰安所があった。日本人女性10人ほどと韓国女性10人ほどがいた。恥をしのんでいえば、私も一度だけ韓国女性を買ったことがある。
 その女性がたどたどしい日本語で語ったところでは、『軍人相手の売店の売り子と聞かされてやって来たが、こんな仕事だった。いまはもうあきらめているし、お金になればいい』ということだった」(3)

 別の兵士の慰安所証言。
「オランダ人の住宅と思われる数軒を1区画とした所で、道路に面した方の境を板塀で囲い、原住民には外からは中が見えないようにしてある。その囲いを一歩入ると、日本女性が数十人、脂粉を漂わせ、ベランダや日陰の芝生に腰を下ろし、兵隊達と談笑していた」
「これらの女性達は浴衣を着ているか、ワンピース姿である。派手な色柄のものを着て、タバコを吸っている人も多い」
「経験のある兵隊で、馴染みのいる者は、入るとすぐ大きな声で彼女を呼ぶ。新しい相手と交渉する者は、目星をつけた女性に積極的に交渉する。話がまとまると、さっさと部屋へ楽しそうに消えていく」(4)

 阿波丸に乗るという慰安婦たちは、どのような慰安所暮らしをしていたのだろうか。どのような経緯で、乗船できるようになったのか、前述の陸軍少尉も首を傾げていたが、不明だ。

 ただし 阿波丸が攻撃される予感はあった。
 シンガポールの第三船舶輸送司令部に嘱託として勤務していた日本郵船社員の証言。
「阿波丸が内地に向い昭南(シンガポール)を出帆した時、私もこれを見送った一人であるが」「出帆の時、船長を本船に訪れたが、沈んだ面持ちで『往航の安全は保障されたが、(昭南で)かように錫、ゴムを積み込んでは、先ず帰りは無事には済まされまい、ご覧なさい、この吃水の深いことを』といわれたことを記憶している」(5)
「阿波丸のシンガポール入港以来、マレー半島の南部からおびただしい電波が乱れ飛ぶのが、日本軍のほうにわかっていた。シンガポールとその周辺に連合軍の第五列が沢山入り込んで信号を送っているものと判断された。
 それで憲兵隊では阿波丸は危ないといっていた。阿波丸には積んではならないはずの石油、ゴム、ボーキサイトが積んであったようである」(2)

 積み荷はともかく、135人の船客しか収容できない設備の阿波丸に総勢2045人が乗船し、米潜水艦の4本の魚雷攻撃で沈没し、救助されたのは、わずか一人だった。
「阿波丸乗船者のなかには、(かつて)アメリカ軍の攻撃で海にほうり出されて助かった遭難船員が700人以上も乗っていた。
 このほか帝国石油450余人、阿波丸乗組員148人(うち一人米軍救助)、昭和電工97人、日本軽金属94人、古河鉱業11人、官庁関係では大東亜省・外務省46人、軍需省地下資源調査所11人などが乗船していた。
 これだけで全乗船者の4分の3に達する」(6)

 ブキ・チンギの慰安婦たちは、残りの4分の1に入っているのだろうか。撃沈後、作成された「乗船者リスト」に見当たらない。
 昭和52年、「阿波丸遺族会」が東京・芝の増上寺境内に「阿波丸事件殉難者之碑」を建立した。その碑文に遭難者の氏名が刻まれているが、それらしい名前が見当たらない。
 碑文の氏名、合わせて2070人だから、当初の2045人から25人増えている。
 さらに、「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)の調べによると、阿波丸の遭難者数を、船員147人、乗船者2130人の合計2277人としている。増えた207人の中にいるのだろうか。
 昭和25年、日本政府は、死亡者一人に7万円を給付する「阿波丸事件の見舞金に関する法律」を制定した。慰安婦も遭難したとすると、遺族へ見舞金は支払われたのだろうか。
 それとも、シンガポール、ジャカルタ、スラバヤなどに寄港した阿波丸に乗り遅れたのだろうか。
「皆が争って、これに乗りたがり」、「乗客数には限度があるのでしまいにはプレミアがついた。一人日本まで1万円という高い値段であった」(2)から、乗船者の最終選定で、はじき飛ばされたのだろうか。

 戦時中、バンコクに駐在した新聞特派員の事実を素材にした小説だが、乗船者選定の雰囲気を紹介したい。

 昭和19年11月ごろ、大東亜省から駐タイ日本大使館に宛て通知が届く。
 来年2月ごろ阿波丸を派遣するが、「帰航の際には、南方各地の邦人婦女子を乗船せしめることになっているから、バンコックでも希望者を決めて、最寄りの同船寄港地へ集結するよう準備を進めておくこと」という内容だった。
 昭和20年2月、サイゴンではその頃、「阿波丸乗船の手はずで、タイや仏印各地から集結した人々でひと騒ぎが起こっていた。乗船許可の最終的権限は、サイゴンの南方総軍第三船舶運送司令部が握っていた」。
「同司令部では理不尽にも婦人子供を極力制限して、陸海軍の現役軍人や軍属をできるだけ多く乗船せしめる工作をしていた」
「バンコックから選ばれて来ていた15人の婦人子供も、これら軍人軍属の強引な割り込みのため押し出され、結局3分の1しか乗船が認められなかった」(7)

《引用資料》1,戸石泰一「消燈ラッパと兵隊」KKベストセラーズ・1976年。2,池田佑「秘録大東亜戦史・改訂縮刷決定版・第3巻・マレービルマ篇」富士書苑・1954年。3,軍人恩給連盟浮羽郡支部「後に続く真の日本人へ―大東亜戦争の想い出」明窓出版・2001年。4,土金冨之助「シンガポールへの道・下」創芸社・1977年。5,「あの頃の思い出」編集事務局「あの頃の思い出-郵船社員の戦時回想」私家版・1965年。6,松井覚進「阿波丸はなぜ沈んだか」朝日新聞社・1994年。7,岩城政治「悔いなき同盟」雪華社・1963年。
(2021年10月12日まとめ)






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?