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慰安婦 戦記1000冊の証言26 本物の慰安所

「やや意外にも思えるが、新聞広告などで公募していた事例もいくつか見つかっている。
 一例は、半島内で最大発行部数をほこる『毎日新報』(唯一のハングル新聞)に出た『軍慰安婦急募』の広告である。
 行先は○○慰安所とあるから甘言も何もなく、そのものずばりで首都京城の朝鮮旅館内にいる業者らしき人物が募集主になっている。
 総督府の御用新聞とされた『京城日報』にも、求人欄にその種の広告がある。
 慰安婦と明示されれば、格式を重んじるこの新聞が掲載するはずがないと思われるのに、何かの手違いか44年(昭和19年)7月の広告ページに、自動車会社のタイピスト募集や産婦人科医院の広告と並んで『慰安婦至急大募集』がかなり大きな枠を取って堂々と出ている。
 前借金の3000円は現在だと1500万円ぐらいに相当する破格の高値だが、実際にはもう少し安かったのかもしれない」(1)

「慰安婦と戦場の性」の著者秦郁彦も取り上げているように、この「広告」、今から見ると、大胆なものだ。ただ、広告のころ、日本内地では、遊廓、料亭などの営業が禁止されつつあった時。多分、朝鮮でもそのような動きがあり、娼妓らを「勧誘」するためではなかったろうか。

「慰安婦」「慰安所」という言葉の意味も、「芸娼妓」関係者には馴染みだったかもしれない。しかし、朝鮮の庶民には、ピンとこなかったのではないだろうか。
 日本軍の軍人も、初めは的外れなことを思った。

 昭和19年召集され、インドネシア・セレベス島に赴任した陸軍軍医の証言。
「ある日、突然、主計少尉から、『軍医さん、慰安所ができることになりましたよ』と言われた。はじめは正直をいって、慰安所は喫茶店のような憩いの場所であると思った者が多い。
 ところが、よく聞いてみると慰安所とは女郎屋である。軍隊内と現地一般住民間に性病が蔓延するのを防ぐために、さらに現地婦人を性の捌け口にしないようにするために慰安所ができることになった、とのことであった」(2)

 いつのころか、中国・済南に駐屯した近衛師団第六野戦高射砲隊員の証言。
「済南にも我が部隊が入城して間もなく、第一線部隊を追うように慰安婦部隊が進駐し慰安所が開設されたことを記憶する。
 経験のない俺は慰安所なるものを知らなかった。戦線に慰問団でも来て、落語、万歳、浪花節の混成班でも来たのかと思った。
 あにはからんや、それは今日的に言えば中年兵(主として妻帯者)のセックス処理機関であったのには驚いた。
 中年層の予後備の兵隊で、満州事変に参加した連中は心得たもので、いよいよやってきたかと、あたかも家人でもやってきたように言う」(3)。

 日本内地でも、昭和初期、「慰安所」はこんなところだった。
 大阪朝日新聞(昭和7年1月19日付)記事。
「左翼物影を潜め、軍事書籍大もて 失業者の慰安所になるこのごろの図書館」の見出しで、
「富山市図書館の窓から見た社会相」「読書子は勿論学生が60%、つぎが失業者の15%、これは最近図書館が失業者の慰安所化した傾向のせいであろう」(4)

「図書館」が「慰安所」なのだ。
 また、「左翼」だが、昭和9年ごろ、当局あてに書いた日本共産党員の上申書に、海員の党組織拡充の方策について、次のような一節がある。
「昭和7年の初め、大和丸と吉野丸の党員及び文連のメンバーが主体になり、船員の全部の賛成を得て、どこか神戸の良いバーか喫茶店を買い取って、海員の慰安所をつくることを計画」(5)したこともあった。

 ここにも「慰安所」が出てくるが、どちらもセックスとは無関係だ。
 昭和8年、習志野騎兵第14連隊に入隊し、満州・奉天に派遣された初年兵の証言。
「昭和8年9月3日」「日曜日、外出許可さる」
「奉天駅近くの兵士ホームへ行く。此処は兵士の慰安所で、接待のしるこを2杯飲んだら胸を悪くした。無料だからいいわで5、6杯飲んでる奴もいる。
 女学生等が兵隊相手にピンポンをやったり、オルガンを鳴らしたり、レコードを掛けたりしてはしゃいでいる。
 俺には面白くもない場所なので、10分間位で外に出る」(6)

 これも「慰安所」でもあった。
「慰安所」という名前は聞かされなかったかもしれないが、「慰安」という言葉で惑わされた女性もいたのだろう。
「売られ行く女達・満洲へ」と題する大阪毎日新聞昭和7年8月4日付記事。
 7月31日午後10時、「大阪・堺港を抜錨、大連へ向かった大連小樽間定期船鮮海丸の三等船室に北海道函館から遙遙と満州に送られて行く苦界の女性6名があった。
 此6名は深刻な不景気に襲われている北海道を捨て、新興満洲へ身を売られて行く姐さん連であったが、静かに暮れて行くデッキベンチに腰を下ろして、うら寂しそうな瞳を投げていた××××さん(20)は苦界の呪いを胸に、悲しき宿命と果てしなき流転生活の心境を語った
―何でも満州の吉林省とかいう所へ行くのだそうです。どうせ自由にならない私達の身体です。どこで働くのも同じです。
 総てを諦めていますけど、此港が愈々内地とのお別れかと思うと悲しくなって、今泣きたい気持ちになった処です。
 だけど満洲へ行けば、日本の兵隊さんを慰めるのが私達の仕事だと聞いていますので、嬉しいような心持もしています。うんと働きますわ」(12)

 また、以下のような出来事もあり得たのだろう。
 昭和15年から敗戦まで、南方・諸島での話。
 慰安婦は「家庭のために身を売ったりとか、いろいろ事情はあったろうけど、中には、お国のために働く兵隊さんのお役に立ちたいと志願してくる女学生もあったそうですよ。
 だけどそういうのは一応病院でもって検査するときに、医者もびっくりするけど本人もびっくりしちゃってね。
 わたしは兵隊さんの慰安隊だっていうので志願してきたのに、こんなことをするのが慰安とは思いませんでしたと、泣き出すのもいました。
 そんなのはみんな内地へ送り帰しました」(7)

 昭和15年から慰安婦の検診を担当した漢口兵站司令部付き軍医の証言。「週に一度の検査日のこと」「一人すむと、仕切りのカーテンを開いてつぎの女が入ってくる」「突然、女たちの流れが止まってカーテンの外側がざわめきはじめた」
「私はいらだってカーテンの外側に出てみた。半円形に立っている女たちの真ん中で、戦捷館の『二階回り』(やりて)が見慣れぬ若い女の手を取って引ったてようとしている。若い女は尻を引っこめ、二つ折りになったような格好で後ずさりしている」
「私は二階回りに手を離させ、カーテンの内側に誘って事情を聞いた。女は昨日午後、内地から来たばかりで、今日検査を受け、あしたから店に出すことになっているが、検査を受けないと駄々をこねて困っているという。
 私は女も呼び入れさせた。赤茶けた髪、黒い顔、畑からそのまま連れてきたような女は、なまりの強い言葉で泣きじゃくりながら、
 私は慰安所というところで兵隊さんを慰めてあげるのだと聞いてきたのに、こんなところで、こんなことをさせられるとは知らなかった。帰りたい、帰らせてくれといい、またせき上げて泣く」
「『一応、今日は連れて帰れ』と二階回りに命じて、つぎの検査にとりかかった」
「翌日、昨日の女が同じ二階回りと業者にともなわれてやって来た。当人も承知しましたので臨時に検査をお願いしますという。髪を結い、白粉をベタベタ塗り、大柄な花模様の着物を着ているが取ってつけたようで、まるで田舎芝居の女形そのままであった。
 昨日、あれから業者や二階回りに説得され、1つや2つ頬ぺたを張り飛ばされでもしたのであろう。一晩中泣いていたのか、眼はふさがりそうに腫れ上がっていた」
「生娘ではないが、性交体験は少ないようであった」
「その翌日」「病室の一番奥まで行ったとき、女の泣き声が聞こえてくる。窓から外を見ると、隣の戦捷館の洗浄場の窓から、昨日の女が身を乗り出して吐いていた。吐物は茶色の液体で、味噌汁であろうか、それに白い飯粒がまじっていた。せき上げては吐き、吐き止まると、子供のように声を張り上げて泣く。泣くというより絶叫している」
「店にはじめて出る女を『初店』という」「初店だというので、物珍しがった兵隊たちが朝からつぎつぎに登楼し、そして男たちの乱暴な性交のために腹膜が刺激され、嘔吐をもよおしたのかも知れない」(8)

「慰安所」と勤め先を知らされても、その中身は知らなかったのだ。

 日本軍の「慰安所」急増中でも、セックス抜きの「慰安所」もあった。
 例えば、台湾・屏東の「軍人慰安所」。地元の『台湾日日新聞』(昭和13年11月20日付)が次のように報じている。
「屏東市が予て将兵慰安を目的に武徳殿隣地に建設中の軍人慰安所は、工事順調に運んで今月末までに完成するので、市では12月上旬を期し、落成式を盛大に挙行する計画である。
 本建物は北村組の設計請負になるもので、総工費2万4千円、建築面積80坪、延建坪180坪、和洋折衷の明朗最新式の二階建であって、階下は大食堂に浴場を附属し、階上は畳敷の大広間と玉突き囲碁将棋等の娯楽室を設備して、土曜日曜祭日は軍人専用に提供し、其の他は倶楽部組織で一般にも公開することになっている」(9)

 この慰安所とか前述の「奉天・兵士ホーム」の流れをくむ「慰安所」が、昭和13年ごろもあったようだ。中国・天津の唐官屯に駐屯していた歩兵第28連隊兵士の証言。
「(昭和13年)5月29日」「午後 外出す」「『憩ノ家』日本基督教会の慰安場に至り、茶を馳走になり蓄音機聞く。散髪す(無料)、入浴、ピンポン等の設備あり」(10)

 ほかにも、各地に同様な「慰安施設」があったかもしれない。

 敗戦直後、明治学院大学教授だった竹中治郎の思い出から……。
「明治学院宛てで私へ英文の手紙が来た。差出人は横浜でケイ・カイタートとなっていた」「明治学院では同僚であったジョン・ターボーグ氏の姪にあたる女性で、横浜の伊勢佐木町にある連合軍軍人慰安所のディレクターを勤めている人」
「ある日私は都合をつけて横浜へ行った。場所は伊勢佐木町通りの左側、終戦前の『不二屋』が占領されて、連合軍の軍人慰安所となっているのである。所長のカイタートさんに会った。まだ独身で30歳代の溌溂とした婦人、皆からケイと呼ばれて親しまれていた。マネジャーは日本人で元の不二屋の支配人である」
「この慰安所には、連合軍の兵士は朝から晩まで自由に出入りができて、コーヒー、紅茶、お菓子を自由に飲み食いができ、服や靴の修理、散髪も出来、ピアノを弾いて楽しんだり、読書や手紙書きもできるという、いこいの場であった」(11)

《引用資料》1,秦郁彦「慰安婦と戦場の性」新潮社・1999年。2,福岡良男「軍医のみた大東亜戦争」暁印書館・2004年。3,六高会戦史編集委員会「近衛師団第六野戦高射砲隊史」私家版・1974年。4,清水正三「戦争と図書館」白石書店・1977年。5,社会問題資料研究会「社会問題資料叢書第一輯」東洋文化社・1973年。6、森下紀良「北満・初年兵の生活日記」三恵企画・1980年。7,広田和子「証言記録従軍慰安婦・看護婦ー戦場に生きた女の慟哭」新人物往来社・1975年。8、長沢健一「漢口慰安所」図書出版社・1983年。9,朱徳蘭「台湾総督府と慰安婦」明石書店・2005年。10,松田光春「東鷹栖出征兵士の従軍録―森山正孝伍長支那事変陣中日誌」私家版・2012年。11、竹中治郎「ある英語教師の思い出」泰文堂・1971年。12、今東光他「新聞集成昭和編年史・昭和7年度」新聞集成大正昭和編年史刊行会・1961年。    
(2021年11月9日まとめ)

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