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慰安婦 戦記1000冊の証言27 子連れ

「混血児については私は一つの意見を持っていた。即ち、男の子は母親の素質を非常に大きく受ける。
 そして国籍は父方の日本人を名乗るのであるから、特にインドネシアの闇の女が母の場合、素質も教養もよかろうはずはなく、父が日本の兵隊というだけで、名前もわからないような場合は、今から20年後を考えると恐ろしいことになると思った。
 そこで州立病院の院長キスマンが産婦人科医だったことを思い出し、彼のところへそういう場合の処置を頼みに行ったが、一口で断られた。私はカトリックだから絶対に出来ないと言って頑張る。
 だが私も負けてはいなかった」「理詰めの説法をする一方」
「キスマンがこのことに協力してくれれば、日本軍に協力してくれたからと特別の申請を出し、トムホンの婦女子収容所に入れられている、オランダ人である彼の奥さんを、子供ともども特別に釈放してもらうよう尽力すると申し出て日参した。ついに彼はОKと言った」
「かくてその後、インドネシアのP(闇の女)が妊娠したと分れば、片端から妊娠中絶をすすめた。少なくともメナド界隈には、父親の分らぬような戦争の落し子は、一人も生まれていない筈である」(1)

 かなり偏った優生思想の持主のようだ。昭和16年9月、海軍軍医少尉に任官後、昭和17年、インドネシア・セレベスの北端メナドで勤務した同少尉の証言だ。
「闇の女」というけれど、慰安婦も含まれていたのだろうか。もちろん、メナドにも慰安所があり、慰安婦がいた。

「メナドの慰安所では1棟に10人ぐらいの女性がいて、陸海軍が一緒に利用していました」「慰安所に現地人も多く、なかでもミナアサ族はよく日本人女性に似ているので、日本の着物を着せると見分けがつきません。兵隊たちの評判がよかったようです」(2)

 この女性たちが妊娠したら「片っ端から妊娠中絶」していたなんて……。
 産婦人科医専門だが、陸軍独立野戦高射砲第34中隊付として、ラバウルに勤務したベテラン軍医の証言。
 昭和18年9月14日の「業務日誌」「午後、兵站司令部より軍医2名来たり、婦人科医としての本官の助言を求む」
「9月15日」「昨日の要請により、兵站司令部附属の慰安所に行き、2人の女性の妊娠診断をする。一人は4か月他は3か月の子を身籠っていた」
「9月26日」「今朝、兵站司令部軍医の招きで、例の妊娠慰安婦を診療に行ったが、2人とも手元にある手術機械だけで中絶手術をするには大きくなり過ぎている様なので、私は手術は中止したがよかろうと申し入れた。
 専門医として此の様な妊娠中期の中絶の難しさを説明すると、若い軍医たちも納得してくれた」(3)

「手術機械」があれば、中絶したのだろうか。「中絶するか、生みたいか」慰安婦の希望はどうだったか。慰安婦に生むことは許されていたのか。
  ビルマの慰安婦関連証言に、子連れ慰安婦の話がよく出てくる。

 ビルマ方面軍は、ビルマ国境を越え、中国・雲南省でも戦った。当然、慰安所もつくり、慰安婦を迎えた。
 若い薬剤少尉は「龍陵駐屯中に恋仲になって、自分の子供を孕んだと信じた身重の朝鮮人慰安婦を妻ときめ、跡継ぎができたと、母あての手紙を添え、金を与えて、さきに日本に帰らせていた」
「その慰安婦が母にうけいれられたかどうかを知る者はいない」
 拉孟でも。
「ヨシ子とかいう朝鮮慰安婦が男の子を生んで猛雄と名付けられた。ヨシ子は龍陵に鞍替えして、拉孟全滅に巻き込まれずにすんだ組だ。もちろん、父親はわからない」
「子連れのヨシ子は終戦後、サルウィン河を渡り雨季の困難なビルマ・タイ国境山脈越えをした」「後退部隊に混じって小休止していた軍医は、ヨシ子とひょっこり再会した」
 この軍医は「ヨシ子の赤ん坊をとりあげ、名付け親になってやったばかりでなく、彼女の出身地の朝鮮半島北端、満州との国境を流れる豆満江を渡ったことがある」
 子どもは「丈夫そうで片言の日本語を喋っていた。ヨシ子たちは10名ほどの慰安婦の一行で、朝鮮出身軍属らしい男に引率されていた。その後、会うことはなかった」
 遮放でも。
 日本人慰安婦は8人いた。「日本人はみなオンリーのように将校の相手が決まっていた。そのなかの福岡県出身の一人は、衛生隊車両中隊長の大尉と仲良くなって子供を生み、大尉も半ば、その子を自分の子と認めていた。
 終戦後は、子供を抱いたその女を准看護婦に仕立て、野戦病院と一緒にさがらせたが、日本に帰り着いたとたん別れてしまった(輸送船は別だった)。大尉はある町の町長に立候補して当選した」(4)

 ビルマのモールメンでも。昭和19年3月、第118兵站病院モールメン分院時代を証言する救護看護婦広島班の救護書記。
 3月16日、「空襲警報発令あれども高度にて通過。夜、当地慰安所の慰安婦のお産方を軍医部より依頼され、誰を、と思いおりしが、3看護婦、同じ邦人なればと、進んで引き受けてくれ、場所柄も考へさせられるので、私もついて行く。2時間もかかり憂慮せしも安産で安心する」(5)
 そのモールメン、昭和20年1月のこと。
「ホテルで『おその』と呼ぶ子持ち芸者に会った」「爆撃に会い戦死した参謀大佐の彼女で、子は彼の子どもだということだった。
 彼女はラングーンの料亭『翠香園』から、第一線の彼をしたって出向いていき、しかもこの惨事に会って、泣きながら彼の遺骨と幼児を抱えてこれから内地へ帰るということであった」(6)

 昭和20年に入ると、ビルマからタイへの逃避行中に思わぬ場面に遭遇する下士官もいた。
「森の中の大きな三差路で、5、6人の女が休んで炊事をしていた。女ばかりと思ったが、40過ぎの男が一人いた。一行はピー屋のジャングイに率いられた慰安婦たちであった。
 彼女らは、ミイトキーナ近くの町にいたが、守備隊が玉砕する前に、脱出するよう隊長に言われ、食糧や薬品などをもらって、サルウィン河の上流を渡り、川に沿って南下してきたのであった。20代の慰安婦4名の計7名の集団であった」
「女たちの一行と歩いて2日目に、異変が起こった」「女たちの中に妊婦がいたのである。彼女が急に産気づいて、生まれるかも知れないというのである。一行は、山中の小さな流れのほとりで止まった。
 そして、差し迫った状況について、朝鮮語で真剣なやりとりをはじめたが、やがて結論が出たらしく、一行は荷をほどいて、整理をはじめた。
 ジャングイの説明によると、妊婦はここに置いて行くことにして、仲の良い女が一人付き添いに残ることになった。そのために必要な生活道具一式を残して行くのだと言う。
 お産が始まったら、水がないと困るので、その意味でここは適当な場所だということであった」
「私たちは、山を下って、はじめての集落にぶつかった」「ピー屋のジャングイは、この集落で泊って、あとから来る兵隊がいたら、置いてきた妊婦の様子をたずねるというので、私たちは、彼らと別れた」(7)

 昭和20年5月、駐屯地ビルマ・ミヤンミヤからの「転進」中の出来事を証言する海軍主計将校。
「5月20日早朝、シンテサカンを出発、相変わらずのぬかる坂道に苦しみながら、北上していった」「午後になって少し開けた尾根に出た」「ここで小休止していると、数十名の陸軍部隊が追いついて来た」
 陸軍部隊の「D少佐は一服して」「足早に出発して行った」
「このD隊を見送っていると、後尾に少し様子の違う兵隊が数名いた。軍服も少しだぶついている。よく見るとそれは女性であった。
 看護婦なのだろうか、それとも慰安婦なのだろうか。頭も短くかっているが、青白い顔立ちが、ほかの兵隊達と際立って違っていた。
 その中の1人は短い天秤棒を担ぎ、前後に藤の籠が吊るしてあった。いたわりの言葉でもかけようとして、ふと前の籠を見ると、雨よけにかぶせてあったバナナの葉の間から、赤ん坊の姿がチラリと目に飛び込んできた。
 私は一瞬ギクリとして息を呑んだ。兵隊でも苦労している難行軍を、これから先どう続けて行くのか。しかも乳飲児まで連れて……」
「私はやっとの思いで『頑張れよ』と声をかけた。彼女達は固い表情で会釈を返しただけで、一歩一歩足元を踏みしめながら、D隊の後を追って行った」(8)

 昭和20年4月、こちらも撤退中のビルマ方面軍野戦自動車廠員の証言。
 モパリンからビリン方面へ、車両8台で撤退中、日赤看護班28人も収容し、乗車させる。
「日赤の看護班には婦長が先任者であり、弓の兵隊、兵長が長で4名護衛が付いていた。
 途中でびっくりしたのであるが、日赤の看護婦班がペグ―から徒歩で下がるとき、途中で朝鮮人慰安婦1名、それが幼児(生まれてまがないベビー)をつれているのもまぎれて入っているのである。
 婦長も振り切れなかったのであろう」
「昼間ビルマ人農夫の舎屋で退避兼仮眠をとっているとき、慰安婦は子供をビルマ人農夫に金を付けて渡した。
 たしか8万ルピーだったか、5万ルピーだったか、金は(同乗していた)正金の加藤さんが出した。女は声をたてずに泣いていた」(9)

「正金」と言うのは、横浜正金銀行のこと。ラングーンに支店があった。

 昭和18年、ラングーン高射砲隊司令部に赴く途中、立ち寄ったマレー・アロルスターの慰安所体験を証言する兵士もいる。
「民家を巧みに改造した其の家には、10人程の半島婦人が住んでいた、その中で幼児を抱いた一人に私の関心が寄せられその婦人を選んだ。
 子供を持つ慰安婦、その子供は一体誰の子供なのであろうか。それとも誰の子とも解らぬまま生まれたのであろうか、果たしてこうした戦地で子供が育てられるものであろうか。
 との好奇心からであったが、結果的には次の解答を得た。父親は中隊長で、誤ってできたのではなく、自己の意思に依ったこと、それ程中隊長を愛している。従って如何な障害があっても絶対に此の子は自分の手で育ててゆく、と非常に固い決意を示していた」(10)

 子どもを手放す母親もいれば、子育て決意の母親もいる。
 子どもができるのは、慰安婦との間だけではなさそうだ。ある海軍将校の証言。
 昭和20年5月ごろか、大船の第一海軍燃料廠研究部部員在勤中、松根油乾留釜建設隊隊長の兼務発令があり、福島県山都村に急遽派遣される。
「松の根からレトルト乾留によって松根タールを採取し、これを水素添加接触分解によって、少しでも航空機ガソリンを補給せんとするプロジェクトの一部門である」
「隊員は横須賀海兵団から1500名、武山海兵団から1500名総員3000名余の大部隊で、付近の学校、寺等に分宿してもらった」「しかし、建設工事も約6割程度完成というところで終戦を迎える」
 復員処理に苦労したが、住民からの苦情対応も大変だった。
「苦情の中には『うちの娘が孕んだのをどうしてくれる』というのがかなりあった。復員処理が全部終了した後の始末なので、まさか隊長一人で村の娘達を孕ましたわけでもなし、これには全くまいったものだった」(11)

Ⅿ島で400人

 沖縄のМ島でも多数の子どもが生まれた。陸軍軍医中尉の証言。
 昭和21年1月、M島から沖縄本島の捕虜収容所へ向かうとき、「島のメドン(女殿)たちは突堤の先まで、われがちに走り出て手を振り、旗をふる。
 島に約2万人の兵隊が1年半ほどいる間に、赤ん坊が約400人できた。隊が引き上げるときに志願して、自動車や軍の器材を払い下げてもらって、現地除隊した者も数十人出てきた。
 やむをえず帰国する者は、各隊の副官が、子供のできた家庭を訪問して歩いて『ごあいさつ』をし、金一封の『寸志』をおいてきた」(12)

《引用資料》1,杉山熊男「海軍新参軍医転戦記」昭和出版・1981年。2,千田夏光「従軍慰安婦」双葉社・1973年。3,麻生徹男「ラバウル日記」石風社・1999年。4,品野実「異域の鬼」谷沢書房・1981年。5,植木正造「ビルマ従軍日記―日赤第489救護班(広島班)」私家版・1976年。6,菊地重規「中国ビルマ戦記」図書出版社・1979年。7,西河克己「白いカラス」光人社・1997年。8,堤新三「鬼哭啾啾」毎日新聞社・1981年。9,屋宇茶会誌編集委員会「やうちゃの足跡―ビルマ方面軍野戦自動車廠・第15軍野戦自動車廠戦誌」私家版・1983年。10,小宮徳次「還らざる戦友ー蘭貢高射砲隊司令部顛末記」私家版・1975年。11、木村真「海軍第31期技術科士官追悼ならびに回顧録」私家版・1984年。12、間中喜雄「PWドクター」金剛社・1962年。
(2021年11月13日まとめ)

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