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慰安婦 戦記1000冊の証言12 実質的植民地

 もう一つ、悲惨な話がある。昭和20年、沖縄本島・今帰仁で発生したという「今帰仁村内に於ける友軍の村民惨殺事件」だ。
「昭和20年4月下旬から、村内の婦女子に(上陸してきた)米兵の魔の手にかかった犠牲者が出始め、若い女を天井裏に上げて避難させる手段もあった。
 村有志が、婦女子を保護するための極秘会を夜間開いたのである。協議の結果、村内に避難中の那覇の辻町遊郭の女と、料亭の女に朝鮮の女を2、3か所に集めて、この人達を米兵の性の相手にさせることに協議一決したのである。
 この情報をキャッチした友軍(日本軍)は、自分たちの花を手折って、敵の米軍の玩具にさせるとは絶対相成らぬと、友軍が農民に変装し、昼夜の別なく村内でスパイ行為を続け、30人余が惨殺者として彼らのリストに記載され、そのように実行したのである」(1)

 これもあまり知られていない、悲惨な事件だと思う。
 次は、中国大陸などで普通にみられた将校と慰安婦の話だ。

 沖縄・座間味島の敗戦前後。「部隊長は、『解散命令』を出した後、朝鮮人『慰安婦』の『トミヨ』さんと行動を共にし、6月初めに、2人一緒に米軍の捕虜になった。当時、同島(座間味島)には7人の朝鮮人『慰安婦』がおり、数百人の朝鮮人軍夫は穴掘りなどの重労働を強いられていた」(2)

 座間味島にいた朝鮮人男性で米軍捕虜になった人の証言などでは、「特別待遇を受ける慰安婦もいた。特攻隊本部があった座間味島の総指揮者は少佐だった。この少佐はある朝鮮人慰安婦を独り占めしていた。
 この慰安婦は飛びぬけた美人だった。22歳ぐらいであったが、すらりとしていて軍服を着、拳銃まで身につけていた。在日同胞で中学校を出、英語もできたということだった。少佐は米軍に降伏するときも彼女を連れて行ったらしい」(3)

 部隊長と慰安婦、同一人物だと思われる。さらに、敗戦直後、沖縄本島の米軍美里野戦病院での海軍航空隊員の証言もある。
「左のベッドには、慶良間列島座間味部落の守備隊長の陸軍少佐がいた。28歳のきりっとした美男子で、こめかみに浮いて見える静脈が、精悍さと同時に、神経質な一面をのぞかせていた。
 隊長は右膝に銃創を受け、組織的戦闘は継続不能と判断したため、部下の各隊に独自の行動をとるよう命じて、実質上、座間味島は占領された」
「背の高いなかなかの美人が、半袖のサマーセーターの下に豊かなふくらみを見せ、右手に一見して煙草とわかる細長い箱を持ち、スラリとのびた足で、まるでファッションモデルが歩くようなポーズをとって、少佐の脇に立った。
 こういう若い女性はめったに訪れてこないので、患者たちの目が一斉にそこに集まった。
 少佐は目をしばたたき、照れくさそうな表情の中に、パッと喜びを散らし、女を見上げていた。女は何か一言二言いったと思うが、その声は私には聞き取れなかった。少佐は低い声で『有難う』と言いながら、ラッキーストライク10箱入りのカートンを受け取っていた。
 女はそれを渡すと、すぐに引き返し、ノーブラの胸を大きくゆすぶりながら出て行った。
『いい奴だ。私が足をやられたとき、あれが看病してくれた。こうして忘れずに見舞ってくれる。内地に帰るときには、出来たらあれも連れて行きたい』
 一語一語、噛みしめるように、そしてまた、自分に言い聞かせるように言って、少佐は大きく頷いた。
 彼の話を総合すると、見舞いに来た女は、朝鮮人慰安婦を統率する叔母に連れられて座間味村に来た女で、高等女学校を卒業し、慰安所の経理を担当していたというのだが、どうやら少佐専属の女になっていたらしい。そして、今では、同じ女たちを米兵に取り持つことを仕事にしているようであった」(4)

 地上戦も行われた沖縄では、ビルマ、フィリピン同様の凄惨な戦争体験をした慰安婦も多数いた。沖縄戦に従事した野戦防疫給水部の陸軍衛生曹長の証言。
「部隊が津嘉山・織名の三角兵舎に移動して間もなく、(昭和19年10月ごろ)軍の慰安所が開設された。津嘉山から那覇に通ずる道路に面した、丘の民家が開放されて慰安所となった。
 日曜日にはなかなかの繁盛ぶりである。月に3-4回、慰安婦の検診が行われた。部隊で古参の軍医が検診に当った。これに同行して軍医の検診結果をカルテに記載した」
「(20年)5月20日、防疫部に命令が出た『知念方面に転進し負傷兵を収容すべし』。J軍医中尉を隊長に医官1名、下士官及び兵を合わせて30名。看護婦として慰安婦20名が隊員である」
「住み慣れた識名の洞窟を後にし、戦友たちの見送る中を出発した」「悪路を重い荷物を背負っての行軍は実につらい。慰安婦でも30キロ近い荷物を背負っている」「夜明け前に知念に着いた」「住民が負傷兵のために洞窟を開放してくれた」
「洞窟は負傷兵でいっぱいになった。2名の軍医では診断に応じきれなくなり、I軍医中尉は『下士官は負傷兵の診断をして、その処置を兵と慰安婦に指示せよ』と命じた」
「負傷兵が絶え間なく送り込まれてくる。死後の処置、汚物の処理、給食など、慰安婦だけでは手が回らなくなった」「慰安婦の献身的な奉仕には頭が下がる思いであった」
「6月初旬と思われる」「I軍医中尉は決意をこめて『病院も危険が迫った、病院を閉鎖して日没を期して真壁に転進する。曹長は兵士20名ほどで独歩患者を引率して出発せよ』と命令を下した」
「重傷患者は乾パンを渡し洞窟に残した。慰安婦には乾パンと手榴弾1発を渡し、解散を命じた。彼女達はみな泣き伏した。解散とはいえ彼女達は独歩患者に同行した」(5)

 彼女達、辻町の女性か朝鮮人女性か不明だが、生き延びることができたのだろうか。

 作家の佐木隆三が、戦後25年たったころ、辻町出身の元慰安婦に話を聞いている。
「本土から来る官僚や商人の現地妻として重宝がられた辻町の女たちは、太平洋戦争の末期にどっと10万もの大軍が沖縄守備にあらわれたことで、こんどは慰安婦として重宝がられたわけだ。娼婦なりにプライドはある。
 わたしに話してくれた元慰安婦は、『(辻町では)一晩に一人しか客をとらないで奥さんみたいに尽くしていた』ころのことを強調する」
「『それがさ、慰安所にやられてからは、1日に何十人も相手にさせられて、それはもう、ズリ(娼婦のこと)なんかじゃないよね、こうなると……』と、それから先は口をつぐむ」
「沖縄戦が激化し、日本軍は南端へ敗走を続けるが、このとき慰安婦たちも行動を共にする。朝鮮人が沖縄へ送り込まれていて、不運な娘たちは辻町のズリたちよりもさらに惨めだった。
 なにしろ腰が立たなくなったのをかついでトラックに乗せ、順番を待つ次の部隊へ運んでまたベッドで身体を開かせるほどだったという。
 この朝鮮人慰安婦も辻町から来た慰安婦も、激戦のさなか補助看護婦や炊事婦として酷使される。そして慰安婦としての役目も、また……」
「沖縄には行列が作られるほどの慰安所があった。輝ける皇軍の兵士たちが昼間から性の排泄のために行列を作っても、住民の目を気にしなくて済む。なぜなら、実質的には植民地なのだから……」(6)

《引用資料》1,沖縄県総務部知事公室平和推進課「15年戦争の証言―太平洋戦争・沖縄戦終結50周年記念」私家版・1996年。2,国森康弘「証言沖縄戦の日本兵ー60年の沈黙を超えて」岩波書店・2008年。3,尹貞玉・他「朝鮮人女性がみた『慰安婦問題』」三一新書・1992年。4,玉井向一郎「風に立つ―沖縄海軍航空隊の最期」私家版・1983年。5,竹本兵十「沖縄戦従軍記録・二十万人の声なき声」日本図書刊行会・1994年。6,佐木隆三「娼婦たちの天皇陛下」潮出版社・1978年。

(2021年12月21日更新)


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