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慰安婦 戦記1000冊の証言34 心中

 昭和6年の満州事変から始まり、昭和20年の敗戦までの間、軍人・軍属約230万人、民間人約80万人、あわせて約310万人が死んだ。
 慰安婦も各地で、さまざまな「戦死」をしている。

 インド洋・アンダマン島の海軍第12特根医務隊軍医は、稀有な体験をしたという。
「昭和20年6月頃より急に部隊内で自殺者が出始めた。精神的に追いつめられた結果と思われる。その中には心中事件も1件あった。
 バンブーフラットの朝、椰子林が墨絵のように朝もやに浮かぶ丘の上で銃声がしたので、何かあったと思っている所へ連絡があり、行ってみるとビルマ娘を抱いて兵隊が死んでいた。
 今度の戦争で、海軍部隊で心中の検屍をしたのは珍しいのではないかと思う」(1)

 このビルマ娘は、慰安婦と思われるが、陸軍部隊でも心中は多々見られた。

 昭和20年6月、南京予備士官学校を卒業、漢口で、歩兵隊員を通信兵にするための教育指導官に任命された陸軍少尉の回顧。
「一か月ほど教育して原隊の前線に帰そうと思うのですが、歩兵隊の兵士が前線に帰るのを嫌って、漢口で慰安婦と心中するという不祥事が数件も発生、中隊長の病死という判断で処置したことがありました」(2)

 中国・湖州では、昭和12年暮れから慰安所を開設したといわれるが、翌13年6月には、心中事件が発生している。

「支那婦人と心中した兵がある。拳銃自殺。一寸考えられない感じである。
 李家巷の戦場を脱出した兵という。相手はピー(慰安婦)ということであった。いい仲になると国境はあるまい。それと戦場離脱では重刑は免れまいし、思い余って死を選び、愛する女性を道連れにしたものであろう」(3)

「道連れ」なら、無理心中なのか。遺書は残されていなかったのか。満州でも、無理心中と見られた事件が起きた。

「E准尉は慰安婦と無理心中、女の片腕は肩のつけ根から切断され、Eは軍服を着たままけん銃自殺」だった。(4)

手榴弾で

 昭和19年6月ごろか、「前日、武漢地区から長安に着いたばかりの巡回慰安所の朝鮮人慰安婦と、これに同行している世話係りの兵站部隊の上等兵が抱き合ったまま手榴弾で自殺を遂げるというショッキングな事件が起きた」
「(現場は)駅裏のあき家になっている四囲の壁が土煉瓦の民家で、仮設慰安所の施設に当てられていた」
「壁ぎわの片隅に数人の女が固まるように坐り、体を震わせて激しく泣き入っている。
 そんな中で、故人の生前に余程親しかったのか、それとも気丈なのか、同じ慰安婦とおぼしき若い女が一人、血潮で赤く染まった手で、死んだ上等兵の戦友らしい兵隊とともに黙々と散乱する肉片等の残滓を拾い集め、麻袋の中へ入れている」
「モノ珍しそうに寄ってくる住民たちや非番の兵隊をドケながら、クルマに積んで焼却場(仮設火葬場)へ運ぶ。死んだ慰安婦の同僚2人がしゃくり上げながらついて来た」(5)

 この悲惨な事件を処理した担当官の証言である。

空襲

 昭和17年、海軍軍医学校卒業後、南方各地を転戦した海軍軍医大尉の「従軍日記」によると……。

 昭和17年12月、ニューアイルランド島・カビエンに入港する。
「2、3日前、夜、敵機の空爆により、カビエンの陸上にあった慰安所3戸はすっかり跡形もなく破壊され、7名の死者と数名の死傷者を出したと。
 なにしろ、ダイナマイトの倉庫に爆弾命中したので、慰安所が吹き飛んだそうだ。13噸ものダイナマイトが一度に爆発すればたまらぬ。大きな池が出来たと」(6)

 昭和15年4月、中国・河口鎮での目撃証言。
「部隊が到着した河口鎮、慰安所の道を隔てた広場の片隅に、小さな墓があり、草花が供えられて絶えることがなかった。何か深いわけがありそうだった。数日して、墓の主の話を聞くことができた。
 それによると、河口鎮警備前任は232聯隊だが、その部隊の主計中尉が遊びに来て同衾中、一発の敵砲弾は屋根を突き破り、無粋にも2人の部屋に乱入炸裂し、2人とも死んでしまった。
 兵隊はまだしも、何の補償もない、はかない女の運命に捧げられる同情の供花だった」(7)

 昭和20年1月、ビルマ・サガインでも空襲があった。歩兵138連隊第2大隊本部員の証言。
 戦闘機2機が白昼の銃爆撃。「連絡を受けて救護に行くと、爆弾の1発は慰安所に落ち、簡単な竹造家屋は吹き飛び、敷地に5、6体の死体が転がっていた。
 その中の美しい中国服の若い女の死体は凄惨であった。額、耳の線で、西瓜を割ったように頭蓋が吹き飛び、脳漿はきれいになくなっていた」「他には全身何処にも傷はなく、着衣は着くずれも流血の痕もなかった」(8)

撃沈

 昭和18年春ごろだったという。海軍の徴用をうけ、サイパンの水上基地で働いていた18歳の青年は、「慰安婦船」の轟沈を目撃した。
「輸送船が撃沈されたんです。基地は大騒ぎになった」「珊瑚礁の中ですから大きな船はありませんが、大勢の兵隊が手近な船に乗り込んで大急ぎで救助に向かって行く」
「しばらくすると船は次々に戻ってきました。見ると、どの船にも大勢の女たちが乗っている。みんなびしょ濡れで、頭の毛が顔に張り付いて、顔がくしゃくしゃに歪んでいる。真っ青で、まるで老婆のように見える」
「10人、20人ではありません、百数十人はいたでしょう」
「救助に行った兵隊が近くに居たので聞いてみると、あの船には何百人という慰安婦が乗っていた」「慰安婦たちは全員船倉にいたんですが、魚雷が命中した爆発で四方に撥ねとばされて、即死した者が多かったそうです。
 どうしてそんなことが分かるかというと、海中に沈んだ船の破片が海に漂っている。その船倉の天井とおぼしき部分に女の死体が無数に張りついている」
「そうやって何百人という慰安婦が死んだ。だから助かった女たちは、本当に運が良かった。木製の甲板の破片に捕まっていたところを救助されたんですが、あれが基地の近くでなかったら全員死んだんでしょうね」(9)

 この船はニューギニア方面からやってきたと噂されたそうだが、ニューギニアといえば……。

《引用資料》1,藤井成之「傷痕―戦争体験記」広島県医師会・1976年。2,平和祈念事業特別基金「平和の礎・軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦11」平和祈念事業特別基金・2001年。3,村田和志郎「日中戦争日記・第二巻華中掃討戦」鵬和出版・1984年。4,朝日新聞テーマ談話室「日本人の戦争」平凡社・1988年。5,市川宗明「火の谷」叢文社・1979年。6,杉浦正明「海ゆかばー南海に散った若き海軍軍医の戦陣日記」元就出版社・2000年。7,歩兵砲中隊戦記委員会「まるさ(〇の中に「さ」を書く)虎の子奮戦記―歩兵第231聯隊歩兵砲中隊」私家版・1974年。8,138ビルマ会「烈138ビルマ戦線―栄光・苦闘・壮絶の記録」浪速社・1976年。9,佐賀純一「戦火の記憶」筑摩書房・1994年。

10,加東大介「南の島に雪が降る」文芸春秋新社・1961年。11、若八会九州支部「戦塵にまみれた青春・本部編」私家版・1977年。12、河戸弥一「ラバウル日記」洛西書院・1993年。13、大谷勲「ジャパン・ボーイ」角川書店・1983年。14、笠置慧眼「ああ、策はやて隊」私家版・1990年。15、斎藤新二「軍楽兵よもやま物語」光人社・1995年。16、ロバート・シャーロッド「絶望の島サイパン」妙義出版・1956年。17、白井文吾「烈日サイパン島」東京新聞出版局・1979年。18、殿山泰司「三文役者あなあきい伝」講談社・1974年。
(2021年11月8日更新)

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