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慰安婦 戦記1000冊の証言9 内地慰安所

日本にも慰安所はあったのか

「日本にも慰安所があった」のか、なかったのか。「あった」とする元韓国人慰安婦の証言の信ぴょう性について疑義も出ていた。
 沖縄で公然と慰安所を開設したことは周知の事実であり、別に紹介するが、日本のほかの地域ではどうだったのか。北からみていこう。

 千島列島の最北端、幌筵島には、将校用、下士官・兵隊用に分かれたバラックが2棟あったという(1)。幌筵島柏原の司令部防空情報班員の証言。
「慰安所の出来たのもその頃(昭和18年半ば)だったと思う。女性は名古屋の『中村』から来たとかで、別名中原作業所とも呼んだ」(20)

 昭和18年2月。陸軍経理学校を卒業し、翌年2月、小樽兵站司令部?網走支部に赴任した主計少尉は、「沿岸警備隊に召集兵の老年多く、問題を起こしては軍民離反のもとになるとのことで、内地には珍しい慰安所を開設」した(2)

 慰安所はなかったのか。こんな下士官もいた。旭川の第7師団第27連隊兵士の証言。
 昭和19年9月ごろ、釧路で「脱柵して夜遊びに行く奴はあとを絶たない。それどころか、此の間、医務室へ来た召集の伍長などは、出征兵士の妻をものにしたと聞こえよがしに自慢する。
『慰安婦つれて歩いている軍隊だ。旦那も適当にやっているのに、その相手の留守を慰めるのが何故悪い』」(3)

ふすま破れ壁は落ち

 続いて、関東地方。昭和20年、茨城・土浦の鹿島海軍航空隊の周辺、安中村の村はずれの谷間には、3軒の慰安所があった。
 ふすまは破れ、壁はおち、鏡のない鏡台がすえてある。航空隊だけの慰安所なので、手入れする必要がなかった(4)。

 沿岸防御陣地を構築する陸軍部隊のいた千葉・九十九里の慰安所は、銚子、成東、茂原の3か所にあった。
 慰安婦の多くは日本人だが、『従軍看護婦募集』という広告でかき集められた朝鮮の娘たちもいた。この慰安所は、外目には普通の民家で看板などは掲げていない(5)。
 千葉・旭の郊外に海軍の航空隊基地があって、隊員たちの慰安施設は普通の農家で、一見してそれとわからなかったが、土間を入ると各部屋に数名の女性が客を待っていた(6)。

 千葉・木更津の海軍航空隊・航空廠でも、昭和17年、慰安所が6軒設置され、朝鮮人女性を含め約50人の慰安婦が集められた(7)。
  同じ千葉の館山には……。昭和17年ごろの予科練の証言。
「いつかの外出のときだった。隊門から北条の町に向って相当歩いて、右折したところにアリランPハウスを発見して、どかどかと上がったことがあった」
「情は至って濃かった。そこをうまく利用して身上がり(立替払い)した。次の外出のとき、同じ店のもう一人の娘に、また身上がりをやってのけた」
『俺と結婚しよう。三千円位郵便貯金しているから、佐世保に帰港したらすぐ送るよ』
 二人とも感激した。そしてアイゴアイゴと泣いた。しかし、部屋を出たとたん、浮気がバレてしまった。2人のアリラン娘がヤキモチ喧嘩を始めた」(8)

吉原から新島へ

 16年ごろか、軍が東京の遊廓吉原から慰安婦を出すようにと貸座敷組合に命令した。内地勤務と外地行きに分かれ、伊豆七島の新島にある慰安所にも派遣された(9)。

 17年9月ごろのこと、東京・小笠原の父島にも、「扇浦の少し手前にある谷間に慰安所が3軒ほど建って20人近い慰安婦が来た」
「小さなバラックの建物の前に慰安婦たちがたむろしていた」「師団の管理部の将校で、内地から来た妓たちを将校用、下士官兵用と選別する係がある」(10)。
 2年後の昭和19年9月、その父島から横須賀へ向かった海防艦「隠岐」主計長の証言がある。
「『隠岐』は駆潜艇『千島』と『八祥丸』を護衛し、父島より横須賀に向かった。途中B24、3機の攻撃を受け、私も25ミリ機銃と13ミリ機銃を指揮して対空戦闘を行ったが、射程が届かず無効であった。
 爆撃を受け航行不能となった『八祥丸』より乗員51名を救助の後、艦砲により処分した。収容者の中に20名女子がいたが、それぞれ数十万円も腹巻の中に入れていた。慰安所楼主に引率された勇敢な女性達であった」(11)

 20年、東京・白山三業地域の丸山福山町あたりに穴を掘っていた警備兵のため、白山接待所が設けられ、慰安婦をおいた(12)。
 静岡・藤枝でも、昭和19年秋、海軍の関東航空隊主計長が、「士官用の慰安所を直営」している(13)

 慰安所とは言えないのだが、静岡市の「二丁目」という遊郭の話。ここに、昭和20年半ばの一時期、100人近い朝鮮人娼婦がいたそうだ。
 そのわけは、軍の要請で南方戦線へ慰安婦として送る予定で、朝鮮から集めた女たちを、輸送状況の悪化で送れなくなり、各地に送って稼がせたのだという。
「二丁目」では「キーセンが来た」という触れ込みで、朝鮮の楽器や踊りも披露。彼女らが来た当座は「朝鮮から若いのが来た」と東京、名古屋方面からもお客が押しかけ、一時は大変なにぎわいだったそうだ。(14)
 当時を知る「二丁目」育ちの主婦の証言だ。

 慰安所話に戻って、海軍経理学校を出た主計士官の、こんな体験談もある。派遣されたのが開隊途中の石川・小松航空隊。昭和19年9月のこと。
「副長にあいさつして、さっそく私が言いつかった初仕事が、ピーハウスを、士官用と下士官兵用に振り分け指定することだったのはショックだった」(15)
 既設の遊廓を慰安所として利用したのかもしれない。
 同じ石川・七尾の話だが、これも遊廓利用のようだ。昭和20年のこと。
 対潜訓練隊の主計長の証言。
「主計長として大事な仕事がある」「それは、赤線の問題だ。出撃すれば、生きて帰れるか、死んで帰るかわからない若い兵隊達の、セックスの問題だ。もし、これが適切でないと、町の若い子女とのトラブルが起こる」
「赤線のボスと会って、いろいろ取り決めなければならない。その取り決めは、
『2軒は士官用、他は下士官、兵用。戦地に向かう兵隊であるから、税金は免除。兵隊が最後の遊びをするのであるから、食事は十分に出してやってくれ、軍より食糧は出す。万事よろしく頼む』ということであった。
 赤線のボスは錆のかかった声で言った。『まかしといてくれ』」「着く船もなく、開店休業になっていた赤線は、息を吹き返した」(16)

 20年ごろ、福岡・大刀洗飛行場周辺には「淫売屋が10数軒甘木町内で営業していた」が、軍は「久留米市内にある軍の慰安所に行くことを奨めた」(17)。

 長崎・大村海軍航空隊は、「大村湾の海岸沿いにあるが、鉄道の向う側の小高い丘の上に、送信所をもっていた」
「そこへ行くまでに下士官兵の『宿泊所』と呼ばれる施設がある場所を通り抜けねばならず、そこでは昨夜のどぎつい化粧が崩れて残っている何人かの女が、ふしだらに床几に腰掛けていた」(18)。

 大分の中津にもあった。海軍経理学校を卒業し、昭和19年3月、主計中尉として、宇佐海軍航空隊に赴任したばかりの仕事は……。
 同年5月、「別府湾に航空艦隊が入港するので士官の慰安所が必要になり、中津市内に二か所急造する命令を受けた。
 さて慰安所とは何か、体の良い女郎屋ではないか、帝国海軍中尉が女郎屋造りもかと内心不満であったが、これもお国のためと諦めて中津の料理屋へ行く。
 女将に会うと、芸者は全部木工場に徴用されているというので、早速工場へ出向き、モンペ姿の芸者を集めて、海軍士官慰安所の説明と奉仕の同意を求めたが、全員賛同、ただし『良質の紙の用意を』との申し出があった。
 当時、純情の小生『どんな紙かね』と聞いたところが一同爆笑する。女将に尋ねたところ、『中尉さんは女を知らんとね』と真顔で言うので、小生は黙っていたのである。
 料理屋は『雲竜荘』『海竜荘』と命名された」(19)

《引用資料》1,北海道新聞社「戦禍の記憶」北海道新聞社・2005年。2,九紫会「命をかけた青春―陸軍経理部幹部候補生の太平洋戦争回想録」九紫会・1976年。3,大内誠「兵営日記ー大戦下の歩兵第27連隊」みやま書房・1988年。4,皐月雅昭他「証言昭和の戦争・リバイバル戦記コレクション10」光人社・1991年。5,西野留美子「従軍慰安婦ー元兵士たちの証言」明石書店・1992年。6,長尾和郎「関東軍軍隊日記」経済往来社・1968年。7,木更津女性史研究会「聞き書き・木更津の女たち」たけしま出版・1997年。8,予科練八期生会?「追浜・第三輯」私家版・?年。9,福田利子「吉原はこんな所でございました」ちくま文庫・2010年。10,山田清吉「武漢兵站」図書出版社・1978年。11,青木忠夫著『私の航跡―海軍軍人の慟哭と悔恨』銀の鈴社、2003年。12、浪江洋二「白山三業沿革史」雄山閣出版・1961年。13,市川浩之助他「二年現役第五期海軍主計課士官戦記」私家版・1970年。14、朝日新聞テーマ談話室「戦争ー血と涙で綴った証言(下巻)」朝日ソノラマ・1987年。15、士交会の本刊行委員会「士交会の仲間たち」私家版・1989年。16、北尾謙三「ぼんぼん主計長奮戦記」サンケイ新聞社・1978年。17、林えいだい「重爆特攻さくら弾機」東方出版・2005年。18、森嶋通夫「血にコクリコの花咲けば」朝日新聞社・1997年。19、海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会『滄溟』私家版・1983年。20、鈴木俊平「北溟の記―北千島薄井部隊の記録」私家版・1984年。 
(2021年12月16日まとめ)

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