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慰安婦 戦記1000冊の証言11 沖縄慰安所

 沖縄の慰安所事情は、那覇市総務部女性室那覇女性史編集委員会編『なは・女のあしあと―那覇女性史(近代編)』による概説を、初めに読みたい。
「戦況が日々きびしさを増してきた1944年3月、日本最南端・沖縄の守備軍として、総数約11万人から12万人を有する第32軍が編成された。
 この軍の主たる構成部隊が、先の中国戦線経験部隊であったことと、沖縄全土に慰安所が設置されたこととは無縁ではない。すでに慰安所を軍関連の必要後方施設として持っていた部隊である。
『準外地』の沖縄で、駐留にともなう業務の一つが慰安所設置であった。その年の7、8月をピークに順次沖縄入りする部隊のために、一部隊につき2慰安所の設置をめざして、場所と女性の確保に取りかかった」
「1992年に『沖縄女性史を考える会』が調査した『慰安所マップ』によって、沖縄全島に130か所の慰安所があったことが判明している。他の軍関係資料などを突き合わせて、朝鮮の女性は約1000人くらいが連行されてきたのではないか、と推測されている」
「沖縄に連行されて来た女性たちは、そのほとんどが船でまず那覇に入港し、全島の慰安所へ送られた。しかし、宮古、八重山駐屯の陸・海軍へは、朝鮮女性たちが直接台湾から移送されてもいた」
「独自の伝統で公娼制度を272年も維持してきた辻遊郭は、第32軍の各部隊が到着するにつれ、将校専用の場となった」
「(しばらくして)辻の女性たちは本格的に慰安婦徴用の標的にされた」「軍命は強く、1944年9月頃までに、およそ500人の辻の女性が慰安婦に狩り出された(と推測)」
「朝鮮の女性に比べれば人数は多くはないけれど、台湾の女性たちもまた沖縄で、日本軍の慰安婦にされていた」(1)

 中国戦線では、慰安所設置はごく当たり前のことであった。沖縄でも、「軍命」と称して、中国戦線で行った、地元の治安維持会に対する要求と同様なことが行われたのである。
「昭和19年の夏頃から沖縄に部隊が続々と配備された」「兵隊の増加に比例するように風紀の乱れがひどくなった」「未亡人や若い娘との間でトラブルが頻発した。
 那覇の波上神社の近くには、美妓3000人といわれる辻遊廓があったが、血気盛んな兵隊が遊廓で乱痴気騒ぎを繰り返し、女をめぐって兵隊同士殴り合い、挙句に発砲事件を起こすなど、事件は毎晩のように発生した」「軍は規律を守るよう各部隊に命令したが、事態はいっこうによくならなかった。軍としては、こうした事件が起こるのは兵隊専用の遊興施設がないためとして、県当局に『慰安所』をつくるよう申し入れてきた。
 軍のこの申し入れに対し、泉沖縄県知事は拒否した。
『ここは満州や南方ではない。少なくとも皇土の一部である。皇土の中に、そのような施設をつくることはできない。県はこの件については協力できかねる』」
「上級の幹部が再度申し入れたが、知事はそれでも態度を変えなかった。『県は軍の作戦に協力しないつもりか』。軍の幹部の中に、知事を露骨に非難する者が出てきた」
「泉知事が慰安所設置の要求を拒否したにもかかわらず、軍は警察に圧力をかけて各地に慰安所をつくり始めた」(2)

 その結果、沖縄全島に総計130か所の慰安所ができ上った。そのうちの一つについて、こんな証言がある。
 沖縄でも、本島から南東に400キロほど離れた孤島・ラサ島(沖大東島)の陸軍ラサ島守備隊長の証言だ。

 昭和19年11月、「11月の便船で、突然やっかいなシロモノがやって来た。それは、番頭につれられた韓国人7名の慰安婦のことだ。もちろん乗船前にわかれば拒否したのだが、島に向かって出発した、となれば手の打ちようもない。
 慰安婦の派遣については、もともと内地を出発するときに、部隊本部でも話が出た。私は、不潔だから島には寄こさないでほしい、といい残してあった。そのため、携行してきたコンドームも本来の役目をはなれ、時計とかその他金属類の湿気よけなどに使われていた。
 だが、遠路はるばる来た者を、追い返すわけにもいかない。とりあえず、西海岸の最北端にあった職員長屋の空家に押し込むことにした。
 その後、彼らから事情を聞くと、真偽のほどはわからないが、南方に行こうと沖縄まで来たとき、そこで32軍のある参謀から、ラサ島は緑の天国、あたかも別天地のようだといわれ、まともに信じてやってきたらしい。
 ところが聞くと見るとでは大ちがい。こんなゴツゴツした岩ばかりの島ならば来るのではなかった、だが、いまさら逃げ出すわけにもいかない、と嘆く。
 ところで、陸海軍とも、金銭の補給がないのだから、遊ぶにも金が続かない。そのため2か月ほどで開店休業となってしまった」
「商売にはならない。そうかといって帰る船は来ない。どうにもお手挙げとなったあわれな一行は、以後は軍の使役。死なば軍ともろとも、貧乏くじを引いた運の悪い一行であった」(3)

 ほかに、慰安婦・慰安所をめぐる証言だが、特異なものとして、次のような話も伝わっている。

スパイ事件

 昭和20年、沖縄・首里での出来事である。戦後、浅井弁護士(仮名)から聞き書きしたものだ。
 浅井弁護士は「当時、沖縄師範学校の生徒で、学徒動員兵として、首里洞窟司令部のなかにいた。『女スパイがつかまった!』というので、洞窟内からドヤドヤと野次馬がとび出した。浅井氏もその群衆の中の一人であった。
場所は、洞窟司令部の南側斜面である。
 憲兵に縄をうたれた一人の若い女が現れた。カーキ色の短いパンツに短袖シャツ、一見、女子挺身隊員かとおもわれる服装である。小柄小太り、みたところ25、6歳の色白の女性で、頭髪はざんぎりになっている。その女はたえず童謡を歌っていた」
「精神異常の女だったのか、殺されることを予知して放心状態になっていたのかは、知るところではない。女は、田んぼの近くの電柱にしばられ、そこに集まった連中に突かれることになった。
 まず、最初に突かせたのは、朝鮮人慰安婦である。朝鮮から連れてこられ、兵隊相手に売春をさせられていた娘たちに『日の丸』鉢巻をさせて、帯剣や竹槍などで、かわるがわる突かせたのである。
 電柱にしばられていたのは、もちろん、沖縄の娘である。帯剣や竹槍の先が、女の胸や腹部にプスッぷすっとささるごとに、鮮血が噴出して、シャツをそめる」
「突くほうも女である。力が弱いので致命傷にならない」「かなり突かれて、ついに悲鳴もだんだん細かくかすれ、ついにぐったりしてしまった」「(最終的には)一人の若い将校が」「みんなに聞こえるような声で、『おれは、剣術は、あまり上手じゃないがのう』と言いながら、腰の軍刀をサッと勢いよく抜き放った」「(端坐させたその女を)斬首!首と胴体が離れた女の屍体は、泥田のなかにころがされ、みんなにふんずけられた」(4)

 ほんとうに慰安婦にやらせたのか。確実なところを知りたい。

《引用資料》1,那覇市総務部女性室那覇女性史編集委員会「なは・女のあしあと―那覇女性史(近代編)」ドメス出版・1998年。2,野里洋「汚名ー第26代沖縄県知事泉守紀」講談社・1993年。3,森田芳雄「ラサ島守備隊記」河出書房・1995年。4,太田良博「太田良博著作集3・戦争への反省」私家版・2005年。

(2021年12月21日更新)

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