見出し画像

慰安婦 戦記1000冊の証言25 戦場妻

「あれは或る夕暮であった。演習の帰路、一人の日本の女と行き合わした。女学生のように艶々した肌の色と可憐な瞳を持った若い女であった。
『あいつだよ。有名なお玉さんと言うのは』
  古参将校は説明した。
『お前なんぞ、ウッカリ手なんか出すなよ。師団長の専用。内地直輸入のチャキチャキ様だ』
 私は着任申告の時の師団長の、あの顔を思い浮かべた。あの厳然と冒し難い、然かも人を刺す眼光には歴戦の貫禄が充分に備わっていた」(1)

 昭和14年ごろの中国・広東で、師団長の「愛妾」を目撃し、日本軍に幻滅したという陸軍少壮将校の証言だ。
 戦記をめくると、こんな話は山盛りだ。列挙してみよう。
 同じころ、中国の九江。
「日本軍に陸続、随行した日本人、しかも九州の民間人がどっと店を構えたりして、街はしだいに賑やかになった。
 中に1軒の朝鮮出身美人姉妹のバーがあり、何でも日本軍第6師団の高級参謀が、駐屯各地を連れ歩いている妾であると噂されていた。
 因みに、このような高級将校の私行は、南海の果てラバウルにても同様で、海軍高級参謀が司令部付として女事務員を連れて来ていて、戦況が危うくなると、さっさと飛行機にて内地に帰らせているような一幕もあった」(2)

 後にラバウル勤務も経験したベテラン陸軍軍医の証言だ。
  昭和16年ごろの中国・杜家荘の状況を、陸軍予備士官も証言する。

「中隊長には女がいた。北京あたりで商売をしている日本女性だった。戦闘が終わり平和になると、その女を警備隊に呼んで、同棲し、兵隊には『奥さん』と呼ばせて、公然と警備隊の中で大きな顔で暮させていたのだ。
 今も、戦闘が収まって警備隊が落ちついたので、北京からその女を呼び寄せて同棲中であったのだ。
 上官の大隊長もそれを注意することは出来なかった。と、いうのは、大隊長自身も、北京から芸者上りの女を呼び寄せて、自分の宿舎に住まわせ、やはり『奥さん』と呼ばせて、公然と暮させていたからである。
 そればかりか、本部付の作戦主任である大尉にも、中国女性の夫人がいて、子供まであった。そんな女関係が上部にあったから、中隊長も女を呼び寄せていたのだろう」(3)

 メチャクチャな軍隊だ。
 太平洋戦争突入後の中国・華北戦線からの証言。

「そのころ、19大隊では、大隊長が若い日本人の女をかこっていた」
「大隊長クラス以上になると公然と女をかこい、下士官や兵は陰でこそこそやる。全部とはいわないが、外地にいた将校の品行が悪いことは言をまつまでもない」
「上がこういう状態では、下の軍紀がみだれるのは当然で、強姦などのいまわしい犯罪が多発したのも、ひとつには、女をかこったり、金銭をごまかしたりする悪徳将校に対する、兵隊たちの無言の抵抗だったのである」(4)

 昭和17年、211連隊第3大隊に配属された見習士官の証言。山東省鄒県に駐屯時の話。
「新大隊長の老少佐はひどく助兵衛で、前にあった慰安所の朝鮮ピーでハルコニーという、ちっと可愛い女がいたのを、すっかり気に入って、新駐屯地へ連れて行くと言ってきかなかったそうだ。
 困った副官がやむを得ず、そのピー屋をそっくり鄒県に移すことにして、その代わり鄒県にあった慰安所を前の所にやるという芸当をやってのけたのである。
 軍隊という所は随分乱暴なことをするものだ。このピー屋がさながら大隊長の妾宅のような感じで、討伐から帰ると、毎晩のように各隊の将校を集めて酒盛りをする」(5)

 慰安所妾宅か。
 昭和17年5月から、山東省吐糸口鎮に駐屯する110大隊機関銃中隊の小隊長の証言。
「吐糸口鎮では大隊本部に慰安所がくっついていた。ただし、正確には慰安所ではなく、俗にいうあいまい茶屋とか銘酒屋の戦地版で、『吐月』という名の料理屋だった。
 朝鮮人の若いのと年増、そして中国人、3人の女性がいた。彼女らは兵と下士官のみを相手にし、将校は出入りしなかった」
「将校は莱蕪や済南へ公用で行くことができる。どちらの街にも大きな遊廓街があった」
『吐月』の経営者は日本人女性で「大隊長の彼女であった。大隊長宿舎と『吐月』は木戸でつながっていて、大隊長は昼飯をそちらで済ませていた」
「大隊はのちに章邱に移駐するが、隊のトラックに女たちとその荷物を積んで、部隊とともに移動するという体たらくであった。内地から届く配給品なども、いいものは真っ先に彼女らのところへ渡っていた」(6)

 大隊長にして銘酒屋の亭主もいたのだ。
 昭和19年12月、軍医中尉として、満州の関東軍第2国境守備隊付となった軍医中尉の証言。
 着任した申告のため、部隊長の官舎に出向く。官舎の玄関を開けたところ、「取次に出たのは、当時内地ではもうすっかりかげを潜めていた、はなやかな和服を身にまとった明らかに妙齢の婦人で、
 来意を告げると、『かしこまりました、ちょっとお待ちを』ということで、部隊長もそれから軍服に着替えたのかどうか、少し間をおいて出て来て、玄関で申告を受ける」
 その後、「2週間もたたぬうちに、『部隊長夫人が内地から到着された』という話がさっと部隊を走りぬけた」
「先日お目にかかった人を、私は彼の夫人とばかり思いこんでいたが、先任の軍医に確かめると」
「あの人は駐屯地から少し離れた牡丹江から呼んでいた芸者で、ずっとこの官舎に住んで、部隊長の身の周りの世話もしてきたのだ、とのことである。
『でも官舎当番は別にちゃんといるではありませんか』というと、『馬鹿を言え、男じゃできないことがある。貴様もそれくらいのこと分かるじゃろう』との答えである」(7)。

「おなごの仕事」をしていたのだ。
 同じ満州で、昭和18年ごろか、満洲第70部隊(第20軍司令部)隊員の証言。
「高級将校の中には、街に満洲妻を囲っているものもいた。将官(少将)の参謀長も同様である。彼等は、土曜日など休日の前日には、勤務に支障がない限り、乗馬で街に下っていった。
 休日明けには、官舎に一旦戻らず、直接庁舎に出勤する者が多く、照れくさいのか、正門から入らず、ほとんど北門から入ってきた。
 このため、当番兵は平常より早く起床して乗馬を世話し、『満洲妻』の家に向かわざるを得ず、私は北門立哨のときは必ず『ご苦労さん』と声をかけた。
 小1時間ほどたつと、当番兵を従えた親分の将校が北門通過となるわけである」(12)

 昭和20年3月、中国・湖南のようすを、陸軍第一野戦補充隊員が証言する。
「すでに50の坂を越えた新旅団長は、前任者に輪をかけた、特権意識過剰の我利々々亡者であった。
 着任して半月も経たぬうちに、夜伽の女が欲しいと言い出した。
 戦地へくれば、軍の高官に酒と女は付きものであると、率先して範を垂れたのは揚子江岸にあった39師団参謀時代からの慣習ででもあるかのように、
平然として言い出すのであるから、緊迫した戦局をどう考えているのかと疑いたくなるような感覚の持ち主であった。
 旅団長閣下の欲しいということは即、命令であった。忠義面をした副官は早速、治安維持会に命令して女を準備させた。
 人身御供になったのは、16歳にも満たぬ花も蕾の姑娘であった。そして『おれはサックなんか使うのは嫌いだから病気の有無をよく調べろ』と命じた。
 止むなく、軍医はこの命令に従ったはずであるが、この姑娘はすごい性病罹患者であると言ったら、好色閣下はどんな顔をしたであろうか。
 旅団長閣下はこの稚い娘をことのほか気に入って、3日にあけず通っていたらしい。
 ある時、愛妾の衣装を新調せしめ、その代金20数万元を主計官に請求した。インフレが昂進していたとはいえ、その金額はあまりにも大金であった。
 止むを得ず、主計将校は砂糖等の糧秣を中国人に横流しして金を工面したらしい」(8)

 ほんとうの話なのか、疑ってしまうほどの乱脈さだ。
 続いて、中国・海南島の三亜海軍病院の看護婦の証言。

「将校は、“おめかけさん”と呼ばれるオンリーをつくって海南荘(将校用慰安所)の一室に住まわせ、従兵に世話をさせたりしていた。
 彼女たちは、女の目からもきれいだと思える人が多く、小ぎれいななりをして道をいそいそと歩いていた」
「ある日、背が高くて、小麦色の肌に目がぱっちりした1人の〝おめかけさん〟が、子宮外妊娠の手術を受けた。執刀は相手の産婦人科医だ。
 ところが、折り悪く途中で空襲が始まり、院内は避難体制にはいった。私たちはどうしたものかと不安顔で顔を見合わせていると、軍医が興奮してどなった。
『重要な患者だ。手を放すな』。そして、『お前たち看護婦が無事でいられるのは、こういう人たちのおかげなんだ。それを忘れるな』と、つけ加えた。幸い、爆撃も受けず手術は無事に終わった」(9)

 中国から離れて、ビルマで闘った主計将校の証言。
「戦争中『岩陰連隊長』という芳しからぬニックネームをつけられていたS大佐は、臆病なくせに鉄面皮で、
 色欲旺盛な人だったようで、慰安所にいたA子という娼婦を独占し、状況の悪い作戦中もずっと連れ歩いて、常に同棲していた事実は有名であり、
 また、連隊が移動するとき軍旗のすぐ後ろを歩いている連隊長の横に、必ずA子がいたことも、私は第二野病、第一野病等、他部隊にいたときにも見て知っていた」(10)

 ここまでやるか、日本軍という感じの連隊長。
 昭和20年2月、沖縄で「防衛召集」された陸軍二等兵の証言。同年6月ごろか、目撃現場は沖縄・摩文仁。
「ある日の夕方グラマンを気にしながら畑道を歩いていたとき、私は思いがけない風景に出会った。
 道ばたの甘藷畑で、3人の女が芋掘りをしていた。3人とも那覇の辻町の遊女であった」
「『わたしたち石部隊の炊事班にはいって、きのうここまできたんです』」「彼女たちが行動をともにしているのは、将校たちである。兵卒には彼女たちのような美しい女性を連れて戦場を駆けめぐることはできない。
『炊事班』とは名目だけで、彼女たちは、それぞれ将校たちの『専属』の『戦場妻』であった」(11)

《引用資料》1,東大唯物論研究会+学生書房編集部「『戦争と平和』市民の記録20・生き残った青年たちの記」日本図書センター・1992年。2,麻生徹男「上海より上海へ」石風社・1993年。3,中村八朗「ある陸軍予備士官の手記・上」徳間書店・1978年。4,桑島節郎「華北戦記」朝日文庫・1997年。5,保定磯村会「紫の絆」私家版・発行年不明。6,帰山則之「生きている戦犯-金井貞直の「認罪」」芙蓉書房出版・2009年。7,安藝基雄「平和を作る人たち」みすず書房・1984年。8,小平喜一「湖南戦記」光人社NF文庫・2007年。9,大石淳子他「白の墓碑銘」桐書房・1986年。10,別所源二「青春と戦争ーある戦中派の手記」光和堂・1980年。11,池宮城秀意「沖縄に生きて」サイマル出版会・1970年。12、関野豊「東満の兵営と抑留記」旺史社・1985年。

(2021年11月13日まとめ)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?