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慰安婦 戦記1000冊の証言17 天皇陛下のため

 満州・孫呉の慰安婦について、日本人か朝鮮人かはっきりしないが、孫呉の戦車隊の主計中尉は、こんなことを弟に話したそうだ。昭和18年12月ごろの出来事。

「孫呉の慰安婦で可愛がっていた女がいて、たまたま日本に休暇で帰国することを話したら、その女の実家が京城市にあるので両親宛の手紙を実家に立寄って渡してくれと頼まれた」
「彼女からの手紙を託され、京城で途中下車してその家を訪れた。娘を慰安婦にまでしている家庭だから貧しい家の娘と思い込んで家を探したが、その住所周辺は京城でも高級な立派な家ばかりで」
「彼女の実家も立派な門がまえの家であった。両親が娘からの便りと聞いて驚いて部屋にあげ」「『ところで、家の娘は陸軍でどんな仕事をしているのですか、タイプでも打っているのかしら、あれでお役に立つのか?』と熱心に尋ねてきた」
「返事に困って」「『娘さんは軍に志願して就職したのか』と尋ねてみた。『いいえ、ある日、娘が使いに出たきり帰ってこないので、心配していたら、翌日、軍の方が来られて、うちの娘を是非軍に勤めさせてくれ、協力してくれ』ということで、何が何か判らず承諾したというのである。
 どうやら街頭で無差別に一斉に網をかけて若い女をさらった様なものである」(1)。

 ありそうな話ではある。
 前述の「女子挺身隊とか、女子愛国奉仕隊とかの美名」の話だが、南方・ラバウルでも、そんないきさつで慰安婦になった朝鮮人女性がいたそうだ。
 昭和17年7月から約1年間、南方・ラバウルなどで闘った予科練出身の搭乗員の証言。

「我々新米の准士官(飛行兵曹長)では士官慰安所では相手にもされない。下士官兵の慰安所」「の方へ行く者が多かった。慰安婦は朝鮮出身者だったが」、その中で半年余り交際するようになったのが若丸であった。
 若丸の話によると、「ラバウルに今いる海軍下士官兵用の慰安婦は、殆どが元山付近の北朝鮮出身者が多い」
「初めは女子勤労挺身隊として徴用され、横浜に着いた時に、内地の軍需工場に働く者と前線の慰安部隊との希望を聞かれ、気の強い仲間が仕事の内容は知らずにお茶汲みか食事洗濯の手伝い位に考えて前線を希望したのだという。
 船に乗せられてトラック島に向う途中で初めて慰安婦の仕事を説明され、驚いたが既に遅かった。
 船の中では、毎日、これも天皇陛下のためであると教育され、トラックを経由、ラバウルに着いた時は大部分の者があきらめ、しばらくの間は4、5名の者が言う事を聞かなかったが、今では故郷に許婚者が待っているという一人だけが頑張って何と言われても聞かず、仲間の洗濯、炊事などをしているということであった」。
「しかし、このような事は故郷には知らせられない。家には横浜局気付で元気に工場で働いている。詳しい事は軍機で書けない。といつも簡単に葉書を出している。
 お金は沢山貰えるが、使い用がない。家に10円以上は送れないという。それ以上の大金が女の子にかせげる訳がないから監督者は金をためて、横浜辺りで将来は料理店でも開いたらどうかという事で、大体みなその積りで故郷へは帰らない決心でいるのだという」(2)

 このころ、「女子勤労挺身隊」あったのか。「内地の軍需工場に働く者と前線の慰安部隊との希望を聞かれ」、これはありそうだし、「気の強い仲間が仕事の内容は知らず」に、これはどうだろうか。

愛国班長から

 沖縄本島で輸送業務に携わっていた朝鮮人軍夫は作業現場の山中で、朝鮮人慰安婦と出会う。昭和20年1月のこと。
「1月15日」「山のふもとから、色とりどりの原色の服装をした10人あまりの女達が、こちらに向かって、登ってくるのが見えた」「彼女達は、あきらかに朝鮮語を話している」
「『あんた方は、どこから来たの?』。私の質問に、女達は泰然と答える。『釜山から来たのよ』『何しに、こんな所まで来たんだい?』『知ってるくせに。なによ!』。もうすれきった女達だ。話に聞く慰安婦だということが一見してわかる」
「1月16日」「作業班長に任命される。任務は」「『慰安婦の幕舎づくり』だ」
「1月17日」「(作業中)慰安婦達がそばに寄って来て、笑いさざめく。満州だ、北支だと言いながら、部隊の後をついて歩いたという彼女達は、年季の入った慰安婦の古参らしい」
「しかし、その中でただひとり、一言もしゃべらない女がいる。物陰にすわり、ただ遠い山ばかり眺めては、もの思いにふけっている様子があわれだ」「『娘さんは、どうしてここに来たの?』。私の問いに、彼女は答えず、ただ首をうなだれたまま、顔を赤らめるだけだ。抱え主がつけてくれた名は、貞子だという」
「1月18日」「ためらっていた貞子が、やっと口を開いて、次のような話を聞かせてくれた。貞子は、ソウル近郊の農家のひとり娘として生まれた」「高等女学校5年に進級した頃(父親が財産をなくした上に病死)」「貞子は学校をやめ、京城のある百貨店に就職し」「母親は」「裁縫台で、賃仕事」「(ところが)貞子は、多くの同僚達とともに、勤めていた百貨店を解雇された。解雇されて、する事もなく遊んでいる娘、ということになれば、明日にでも、挺身隊志願の勧告を受けるだろう。
 こういう切迫した時期に、母親は愛国班長から、耳よりな話を持ちかけられた。内地にある民営企業で、女工を募集しているのだが、千円の前金をもらえ、2年間の契約で、寝食を提供された上に、50円の月給ももらえる、という条件だった。
 母親は、『娘を挺身隊からのがれさせたい』一心で、この話にとびつき、貞子は貞子で、千円の金があれば、母親が楽に暮せるだろうと考えて、募集に応じる決心をした」
「愛国班長の立会いの下で、母子の印を押して、千円の現金を、其の場でもらった。3日後に、貞子は見知らぬ男に伴われて、釜山までやって来た。そこで、10人の女達と合流した時、彼女はすでに、人肉市場の捕らわれの身となってしまっていたのだ」(3)

「挺身隊」とは、当時の朝鮮では「慰安婦」を意味すると思われていた。

《引用資料》1,松原俊二「学徒、戦争、捕虜ー私のレイテ戦記」開発社・1989年。2,角田和男「修羅の翼」今日の話題社・1990年。3,金元栄「朝鮮人軍夫の沖縄日記」三一書房・1992年。

(2021年12月24日更新)


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