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法廷傍聴控え 青物横丁医師射殺事件3

 さて、矢崎の公判に戻って、10月19日、壊れたリボルバーと交換にトカレフを受け取ってからの矢崎の行動を追いかけよう。その辺は、矢崎が第5回公判(95年8月31日)で詳しく供述している。
 
 自宅に戻る途中、竹井に電話を入れる。「ピストルを見たとき、なんかにせものみたい。『にせものじゃないの』と聞くと、『そんなことはない。間違いなく本物』と竹井がいいました」。
 矢崎がにせものと思ったのは、銃身などが銀色でピカピカ光り、本物らしく見えなかったためだ。そのときか、竹井は、「スライドを引けば発射する」などと、オートマチック拳銃の使い方を教えた。
 自宅に戻った矢崎は、早速近くのグラウンドで試射をする。「本物かどうか、弾が出るかどうかも調べました」。
 拳銃を撃つのは初めてだ。「爆発しないとも限らない。その危険性を避けるため、拳銃を角材にくくりつけ、そこに支柱を立てて据えつけ、引き金に紐をつけて引っ張りました」。1発試射したが、ちゃんと弾が発射されたので、「満足しました」。

 満足した矢崎は、すぐに拳銃を持って青物横丁駅に向かった。帰宅する東医師を待ち伏せして襲うためだ。青物横丁駅前のファストフード店で見張る。東医師の姿を発見し、すぐに店を出て追いかけたが、途中で見失う。
 翌20日、別の都立病院に母親と一緒に行った。腹部に異物があるという訴えに、診断した医者はそんなことはありえないと相談に乗ってくれない。それだけはでなく、精神科の医師に診てもらえと助言するが、矢崎は断った。
 21日にも青物横丁駅で待ち伏せた。駅前には交番もある。しかし、矢崎は、「とにかく、ピストルを撃てればいい」と思った。この日も東医師を見つけたが、やはり、途中で見失う。
 22日、東医師を追いかけるためにバイクを使おうと、交番の横にある自転車・バイク駐輪場の使用契約をして、バイクを置いた。
 23日は日曜日。帰宅時だけではなく、朝の出勤時も狙おうと、青物横丁駅近くのホテルに泊まる。24日朝、東医師の出勤時間に合わせ、青物横丁駅に行く。
 しかし、東医師には会えなかった。体調があまりよくなかったので、休みたいと思い、バイクで5分ぐらいのところにあるホテルで休憩した。
 午後4時ごろ、ホテルを出て、駅で帰りを待ち伏せし、東医師を見つけたのだが、またも途中で見失う。体調が悪くてほとんど眠れないまま、犯行当日の25日を迎える。
 弁護人が尋ねる。

 ──その日、拳銃を入れた紙の手提げ袋にマジックで何か記入しましたか。
「ピストルを袋に入れるとき、(すぐ発射できるように)スライドを引いて入れまして、引き金を引く危険性があるので、出る方向を書きました」
 ──どんな印ですか。
「ピストルの弾が出る方向に矢印を書きました」
 ──外側からみて、拳銃がどっち向きかわかるわけですね。
「そうです」
 ──何発装填しましたか。
「4発」

 ホテルをチェックアウトしたのは7時30分ごろ、青物横丁駅までバイクで行った。契約してある駐輪場ではなく、すぐ逃げられるように駅の階段の下に置いた。体調がよくないので、駅の脇のビルの前で座って待った。

 ──東医師を見つけられましたか。
「発見できました。後ろから追って行き、(高架駅の改札口に至る)上り専用のエスカレーターがあるんですが、その上のほうに東医師がいました。
 エスカレーターを下りて、駅の改札口や切符売り場の方へ10メートルぐらい歩いたとき、後ろにつくことができました。間違いなく東医師と確認したかったから、真横から東医師の顔を見ました」
 ──ほかの人を間違って撃つと大変だから。
「はい」
 ──そのあとは。
「また、後ろに戻り、袋からピストルを出し、背中を狙って撃ちました。銃口は背後30センチのところまで近づけました」
 ──とくにどこを狙ってということはありましたか。
「背中の左下。無意識のうちに撃ちました」
 ──無意識の意味は。頭部、心臓を狙わなかったので、無意識というのですか。
「はい。頭、心臓狙ったら、100%死ぬとわかっていたので、できませんでした」
 ──背中の左下をねらった場合、場合によっては死ぬかもしれないという気持ちは。
「ありました」

 青物横丁駅には自動改札口が八つある。そのうちの一つから、東医師は入ろうとした直前、「パーン」という発射音が響き渡った。

 ──拳銃の引き金を引いた瞬間、どういう気持ちでしたか。
「とにかく、撃たなけりゃいけないという自分の使命みたいなことしかありませんでした」
 ──躊躇は。
「まったくありません」
 ──撃ったとき、東医師はどうなりましたか。
「東医師は倒れました」
 ──それを見て、死んだと思いましたか。
「それまでははっきりせず、ただ、大きなダメージを受けたなと思いました」
 ──目的を達成できたということですか。
「そうです」

 その後、矢崎はバイクで現場を離れる。途中でバイクを乗り捨て、タクシーに乗り換え、千葉・習志野方面に向かった。習志野でタクシーをおり、拳銃を捨てようと、最初、川を探した。しかし、近くにない。拳銃や弾をむき出しのままで、近くの公園に捨てた。
 その後、市内に住む知人を訪ねる。矢崎はその知人に280万円預けてあった。その金を返してもらい、あてもなく電車に乗り、新宿、横浜へと向かう。途中、「報道関係が気になった」ので、携帯ラジオを購入する。
 25日夕方、ニュースで、東医師の死亡を知る。

 ──東医師が死んだと聞いて、気持ちは。
「複雑な気持ちになりました」
 ──それをわかりやすくいうと。
「いままで、私自身が苦しんでいました。原因は東医師。その対象物がなくなったので、複雑でした」

 25日、横浜・伊勢佐木町のホテルに泊まる。翌日、「自分の死が近づいているので、温泉で命をまっとうしたい。温泉に行こう」と思った。箱根のホテルに泊まり、報道機関にあてた“レポート”を書き始めた。
 矢崎の受けた人体実験と、「私が精神分裂病という報道内容が真実と違うので、それを改めなければならない」という動機からだ。
 27日、箱根のホテルを出て、平塚へ向かう。箱根でレポートを報道機関に郵送すると、自分の居場所が警察にわかるので、別の場所で投函し、再び、箱根に戻ろうと考えた。
 テレビがどのように事件を報道しているのかもしりたくて、平塚で液晶テレビを買った。「やはり、精神分裂病として報道している」。ますます真実を明らかにする必要が出てきた。横浜で、書きかけのレポートに取り組み、完成したのが夜の10時か11時だった。
「テレビ局に郵送しようと思ったが、一日も早く届けたい」と直接持参することにした。新宿に出た矢崎は、28日の午前3時ごろ、タクシーに乗り、各局を回り、警備員に渡した。
 レポートは、「できうる範囲で報道してください。全国の医師、科学者に知らせたいのです。また、すべての国民に対しても知らせたい。このようなことがあってよいものか」という前書きで、住所、氏名を明記し、第1回公判で述べたような内容を詳述したものである。

 ──その後は、また、箱根の温泉に戻るつもりだったが、変わった。そのきっかけは何ですか。
「私に関する報道があまりにも大きく、顔写真も出ていることと、家族とか親戚関係に大きな迷惑をかけている。捕まるのは時間の問題だと思いました。体調もよくなかったので、自首したほうがいいと思うようになってきました」

 テレビ局にレポートを渡してから、チェックインした新宿のホテルでテレビを見た。その報道の中では、実名も顔写真も出ている。それまで、警察は実名を公表しなかった。
 しかし、27日夕方、公開手配に踏み切ったのである。この事件は実名報道か匿名報道かという問題も提起するものであった。犯人を特定したときから、精神科の治療・入院歴のあることが判明していた。
 通常、これらのケースでは実名報道されない。ともあれ、公開手配が矢崎に自首を促す一つの要因になった。

 ──28日、ホテルをチェックアウトし、お母さんに連絡しましたね。
「うちの母親は、とにかく会いたいので、埼玉までこれないかという。私も1回会いたい、母親に会って食事でもしてから自首したいと思いました」
 ──その途中で、あるテレビ局に電話しましたが。
「28日に見たその局の報道の内容があまりにもひどい。真実は違うと話したかったんです。
 その報道は、次は都立病院の副院長を狙っているとか、きょう警察署に出頭するとかいってるとか、私が実際にいっていないことが報道されていました。そのことを訴えたくて電話しました」

 埼玉のJR駅で母親に会うため、新宿でタクシーに乗った。運転手が途中までの道しかわからないというので、途中で下りる。そこでテレビ局に電話し、また、タクシーに乗り、母親の待っている駅に向かった。
 改札口に母親がいるのを見つけたが、警察官も付近にいるのを見たという矢崎は、運転手に母親を呼んできてくれと頼む。

 ──その後、逮捕されましたね。
「運転手が横断歩道の近くに車を止め、母親を呼びに行きました。私はすぐ近くに私服の警官がいるのを見て、窓を開けて手を振って呼び、『いま、母親を呼んできて、一緒に食事してから自首するので待っててください』と頼みましたが、逮捕されました」

 事実関係については争いがなく、被告人質問以外に証人の出廷もない。裁判は最大のポイントである精神鑑定問題に入る。

 第6回公判(95年9月26日)では、起訴前、矢崎の精神鑑定を行った鑑定人が証言した。連続幼女誘拐殺人事件の宮田を鑑定し、責任能力ありとしたグループの1人、私立大学名誉教授である。
 同教授の鑑定は、犯行時、妄想性障害だったが、心神耗弱で限定的責任能力があるというものだ。同教授は後に再登場する。教授鑑定に対し、弁護側は異議を唱えているので、裁判所は職権で改めて精神鑑定を実施することを決めた。
 鑑定項目は、矢崎の事件当時と現在の精神状態、矢崎の主張する体内異物の存否、異物感の原因などで、96年5月ごろまでに鑑定結果をまとめることになった。
 再鑑定を行ったのは、国立大学講師である。その鑑定書が提出され、10カ月後、第7回公判(96年7月30日)が開かれた。久しぶりに見る矢崎だが、以前よりは体の調子がいいようで、入廷するときも、すたすたと足取りは軽い。公判の途中から、杖をついた高齢の女性が最後列に座った。矢崎の母親である。
 最初に、左陪席裁判官が講師の鑑定書要旨を読み上げる。

 ──体内に異物は存在せず、精神分裂病による体感幻覚によるもの。警察に行ってライフル銃の入手方法を聞いたり、拳銃を入手するため暴力団事務所に行くなどしたが、これは精神分裂病による思考障害、情動障害によるもの。妄想が発展して殺人事件が発生したもので、犯行当時、心神喪失で責任能力はなかった──

 私立大学名誉教授の鑑定と違う結論になった。

(2021年10月20日まとめ・人名は仮名)



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