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法廷傍聴控え 青物横丁医師射殺事件1

昔、こんな事件がありました。

 1994年10月25日午前8時5分ごろ、東京・品川、通勤・通学客で混雑する京浜急行青物横丁駅の改札口付近で、出勤途中の都立病院泌尿器科医長の東康弘医師(47歳)が、背後からいきなり拳銃で撃たれた。
 腹部を貫通した銃弾は、近くにいた女性のズボンをかすめた後、駅の改札口奥の案内板に当たった。改札口付近の通路に血がしたたり落ち、病院に運ばれた医師は、約5時間後、出血多量で死亡した。
 警察は第2の犯行を防ぎ、犯人を一刻も早く逮捕するため、関係個所に厳重な警備体制をしき、27日夕方には、元会社員の矢崎道也容疑者(36歳)を公開手配した。
 手配書には、顔写真とともに、「身長176センチぐらい、やせ型、髪オールバック、角張った青白い顔、サングラスを使用することあり、拳銃所持」などと特徴も記されていた。
 しかし、第2の犯行もなく、あっさりと逮捕されたのは、28日の夕方であった。母親がこれから息子と会うと会合場所を警察に通報したためだったという。

 矢崎の初公判は、逮捕から半年ほど経過した95年4月18日、東京地裁で開かれた。通常よりかなり遅れた初公判である。これは矢崎に精神科の入院、通院歴があるため、刑事責任能力の有無を調べる精神鑑定を起訴前に行ったからである。
 まず、1日かけて簡易鑑定を実施し、さらに詳細に鑑定する必要があると判断された。そのため、3カ月かけて本格的な精神鑑定を行う。結果は、犯行時、妄想性障害だったが、限定責任能力はあると鑑定され、この日を迎えた。
 矢崎が手錠、腰縄姿で、2人の刑務官に連れられて入廷する。やせて顔色は青白い。前かがみで歩く。横から見ると、おなかがくぼみ、背中にくっつきそうだ。薄い青の長袖シャツ、濃紺のジーパン、髪はカツラをつけたようにふわっと盛り上がったオールバック。
 人定質問に続き、検察官が起訴状を朗読する。殺人、銃刀法違反、火薬類取締法違反の起訴事実に対し、矢崎が罪状認否を行う。
 裁判長にメモを読み上げる許可を求め、ゆっくりと一語一語かみしめるように、弱々しい声で述べた。

「93年6月8日、都立病院で、東医師により、右そけい部ヘルニアの手術を受けました。そのとき、回転運動を起こすポンプを埋め込まれ、ある化学物質を入れられるという生体実験をされました。
 そのため、糸状のものが体じゅうをかけめぐり、頭のてっぺんから足の先まで体が痛くなりました。
 退院後、ほかの多くの病院で診察も受けましたが、原因がわからないといわれ、ずっと我慢してきました。この生体実験を受けた苦しみは、実際にポンプを埋め込まれた人間じゃないとわかりません。
 このようにされたら、だれでも、私と同じ行動をとるでしょう。ある人は、体感幻覚といい、ある人は妄想、ある人は思い過ごしという。
 しかし、ポンプは実在します。おなかを開けてみれば完全にわかります。体調が悪化し、死ぬ前になんとか東医師を襲おうと思いました。自分に残された最後の使命として、東医師を撃ったのです。
 事件を起こしたときよりは、体調はよくなっていますが、いま、一番希望していることは、おなかの中に埋め込まれたポンプを取り除き、刑務所に行くことです」

 犯行を全面的に認めたが、その原因は東医師が生体実験をしたことにあるという。弁護人は、私選の3人。主任弁護人が意見を陳述した。

 ──都立病院でヘルニアの手術を行ったが、適切な治療、説明が行われず、被告は医学実験という妄想を抱き、余命いくばくもないという妄想から犯行に至った。これらの妄想は、精神分裂病か妄想性障害によるものであり、是非、善悪を弁識する能力はなかった。
 したがって、心神喪失であり、刑法39条1項「心神喪失者の行為はこれを罰せず」により無罪である──

 検察側の起訴前鑑定では、妄想性障害だが限定責任能力はあるとした。つまり、心神耗弱であり、刑法39条2項「心神耗弱の行為は、その刑を軽減す」にあたるというわけだ。裁判の争点は、心神喪失か耗弱か、矢崎の刑事責任能力の程度にしぼられた。
 そのころ、東京地裁では、連続幼女誘拐殺人事件の裁判も行われていた。この裁判の争点も刑事責任能力であった。宮田被告の場合も簡易鑑定が行われたが、問題なしで起訴された。
 裁判開始後、弁護側の要求で、慶応大学名誉教授ら6人の学者グループが、約1年5カ月かけて精神鑑定を行った。その結果、性格に強い偏りはあったものの、犯行時、責任能力はあったとした。
 これに不服の弁護側が再鑑定を求める。帝京大教授ら3人のグループが、今度は2年近くかけて精神鑑定を実施する。その結果は二つにわかれた。
 ともに心神耗弱としたのだが、一つは、犯行時、精神分裂病であり、もう一つは、多重人格という精神病であったと鑑定した。鑑定は三つにわかれ、しかも、多重人格という珍しい鑑定も出た。宮田裁判の行方は非常に注目されていた。
 宮田の場合、逮捕当時、精神病を疑わせるような報道はなかった。しかし、矢崎の場合は、当初からおかしな言動が目立った。それだけに、責任能力に関する裁判所の判断が注目された。

 矢崎の第2回公判は5月19日に予定されていたが、どういうわけか中止となり、6月14日に開かれた。弁護人が交代している。これまでの弁護団は妄想による心神喪失状態での犯罪であるとして無罪を主張した。ところが、この点について矢崎と意見が合わず、解任されたといわれている。
 後任は国選弁護人となった。通常、国選の場合、弁護人は1人だ。しかし、事件が複雑で難しいとか、長期間かかるなどと裁判所が判断し、“特別案件”に指定すると、複数の弁護人が選任される。このケースは“特別案件”に指定され、弁護人は2人となった。
 この日、検察側の証拠申請に対して、弁護側が意見表明した。矢崎に対する精神鑑定書については、「主文について不同意」とした。
 つまり、限定的な刑事責任能力があったということに異議を唱えたのである。この点では、前の弁護団と同じ意見であった。
 弁護側が同意し、採用された証拠については、要旨告知が行われた。その中で、被害者の調書も登場した。
 東医師の腹部を貫通した弾がズボンをかすめたという女性は、「ズボンが流れ弾で切れました。あと数センチずれていたらと思うと、ぞっとします。犯人は二度と社会に出てこれないようにしてほしい」と述べている。
 東医師の家族は妻、17歳の娘、15歳の息子の3人。妻の調書の要旨も読み上げられた。

 ──事件直後は、ちゃんとしていないと主人に叱られると思い、取り乱さないようにしました。しかし、最近は心の支えもなく、生活の張り合いもありません。
 こどもが病気になったとき、これまでは主人が診て大丈夫といえば安心したものですが、いまはそれもありません。
 こどもの帰宅が遅くなると、それだけでも、何かあったのではないかと心配になります。精神的にも不安定、体調もよくありません。好きなテニスもできず、心にポカリと穴が開いた状態です。台所にいて思わず涙が出てくることもあります。
 犯人は二度と社会に出てきてほしくない。一生刑務所に入っていてほしい──

 続いて、検察官が証拠物を入れる袋から、銀色に光る中国製自動装填式拳銃のトカレフを取りだして、「これはキミの持っていたものだね」「もういらないね」などと聞いていく。「そうです」「はい」と矢崎は傍聴席で聞き取れないほどのかすかな声で答えた。

 第3回公判(7月13日)と第4回公判(7月28日)では、弁護人による被告人質問が合わせて約5時間行われた。
 矢崎は散髪して、すっきりした頭になっている。相変わらず、おなかに力が入らないようで、矢崎の声は小さい。傍聴席で聞き取れたのは、おおよそ次のようなことだった。

 矢崎は東京にある私立大学の工学部の二部(夜間部)を卒業した。事件直前の9月中旬までは電気機器の保守、設計関係の会社に勤め、設計したり、図面を書いたり、仕事は順調だった。
 ところが、92年8月ごろ、血尿が出て、そけい部も痛む。いくつかの病院に行ったが、原因がわからず、同年10月、会社に近く、土曜日も診療しているというので、都立病院を訪れた。
 そのとき診察したのが、泌尿器科の東医師である。東医師の第一印象は、「やさしそうだった」。前立腺炎という診断で、薬をもらい、同年12月まで通院したが、痛みは完全には消えなかった。
 翌93年5月下旬、今度は右そけい部に親指の先ほどの突起ができ、たまに痛むので、再び、都立病院に行った。やはり、泌尿器科で東医師が診察し、そけい部ヘルニアで手術の必要があるといわれる。
 一般向けの医学書を見ると、この手術は盲腸ぐらいのごく簡単なものと書いてある。また、ほかの病院の診断も同様だったので、矢崎は手術を受けることにした。

 6月7日に入院し、翌8日、東医師の執刀で手術が行われた。手術は1時間ほどで終わったが、翌朝、「ベッドから立ち上がろうとしたが、おへそのまわりなどが痛く、水が入ってるようで、圧迫もあり、立ち上がれなかった。おなかに異物感もあった」。
 さらに、睾丸も腫れあがり、右足もしびれた感覚で、爪も紫色になり、目も充血し、耳なりもする。
「手術すればよくなるのに、だんだん悪くなっていく」。6月22日に退院するが、腹部の異物感などがあるので、ほかの病院にも行く。都立病院にも、改めて、異物のある場所をマジックで書いて行ったこともあった。
 弁護人が尋ねる。

 ──東先生に異物をとってくれといいましたか。
「何回もいいました」
 ──東先生は異物入れたことを認めましたか。
「まったく知らない。何をいってるのか、さっぱりわからないといいました」
 ──そうはいっても、体調悪い、何とかしてほしい。
「はい。ただ、レントゲンに映らないので、第三者には説明できないかもしれません。私としては取り出してもらえればいいんです」

 矢崎はおなかを裁ちバサミで切って、“糸状のもの”を自分で取り出そうとしたこともある。そのとき、救急車で私立医大病院に運ばれた。これまで淡々と供述してきた矢崎は、このくだりになると急に涙ぐんだ。
 私立大学病院で、「頭がおかしいんじゃないの」といわれ、都立精神病院への転院を勧められたという。その病院に入院したのは93年9月のことである。
 94年3月、体調がよくなり、仕事が好きだし、早く社会復帰しなければならないと会社に復職する。同年5月には友人と旅行にも行った。このころ、東医師のことなどは気にならなかった。

 しかし、6月初旬ごろから再び体調が悪化して、食欲もなくなる。生体実験で、ポンプを埋め込まれ、ある特殊な化学物質も注入されたと確信した矢崎は、東医師や病院に対して、何度か質問書も出した。病院側も回答書を送っている。
 矢崎は、「自分の腹部に入っているポンプを取り出してくれと要請した」のだが、「そういうことはない」といった趣旨の回答があったという。

(2021年10月19日まとめ・人名は仮名)

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