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慰安婦 戦記1000冊の証言43 郵便貯金2万円

 ビルマの慰安所にいた元朝鮮人慰安婦が、2万円を超える郵便貯金をしていたという話から、「慰安婦が性奴隷のわけがない」と批判する声がある。

 昭和13年初頭、陸軍省の要請で、東京・玉の井などの私娼の一団が、中国・上海に設置された慰安所で働き始める。

 朝9時から営業開始して「12時から1時までが食事休店、それからまた5時まで営業、そのあと2時間が入浴と夕食、夜の9時までが将校用」
「2日3日と日を重ねるにつれ、女たちはだんだん要領をおぼえ、20人、30人の客を取っても、最小限の疲労で食いとめられるようになって行った」
「1人の女が1日平均15人の客を取るとすると」「1か月から3か月ぐらいで借金が抜け、あとは稼ぎ放題という計算。いきおい稼ぐのにも気合いが入った」
 半年もすると「現地除隊の兵隊と世帯を持つ者や、もっと荒稼ぎが出来るという前線の慰安所へ転出する者が現われ(てきた)」(1)

「借金が抜け、あとは稼ぎ放題」ということは、「借金が抜け」るまでは、「籠の鳥」「性奴隷」であり、借金返済後は「自由営業」ということなのだろうか。

 昭和19年ごろだろうか、金沢の花街「三番町の愛宕から北支へ慰問所の名目で店を出して、大儲けした『こちよ』という置屋があった。たくさんの芸者が加わった。
『なも寝台に寝たなりでおむすび食べんなんわ、水のまんなんわや。おしっこに行く間ものうて。ぬくいと思うたさな済んどるちゅう調子で、ただ男に運動させとるだけの明け暮れやった。ほんでもお金をたんと稼いだわ』
 北支から帰ってきた妓の話である。その貯金通帳には、ぎっしりと数字が書きこまれていた」(2)

「稼ぎ」については、こんな元日本人慰安婦の証言もある。
「昭和17年の秋、私、東京の浅草の吉原で女郎をしていたんです。18で女郎に売られ、女郎を10年もしていたんです。
 そしたら或る日、おとうさん(抱主)が、どうだお前、海軍さんと一緒に戦地へ行って働いてみないか、誰々も誰々も行くぞ、お前ならベテランだから従軍芸者ということにしておいてやるぞ、と声をかけられたのです。
 そのころ満州や支那はもちろん、南方の第一線でも兵隊さんを相手にする従軍慰安婦なんていうと、ていさいがいいけど、要するにお女郎さんがすごく足りなくて、今に私たちにも徴用令がくるかもしれない、という噂があったんです。
 私はおとうさんから話があると、すぐOKしました。私も女郎としてはトウのたった齢で余り売れなかったし、戦地に行けば今の10倍は稼げるし、稼いだら早々に内地へ帰って来て、何か自分に向く商売をはじめよう、と考えたからです。
 それから半月後に、私は同じ吉原の3人のお女郎さんと、輸送船に乗せられました。乗って驚きました。若い逞しい女たちが20人、30人いたかしら――大勢いたんです。全部が朝鮮の女性たちばかりでした」
 台湾の高雄に着く。「半年ばかりいたが余り稼ぎがないので、ほかに移してくれるように頼みました。
 だって、そこでは将校さん相手で一晩に15円貰っていましたが、ほとんど一人ぐらいしか客がなく、まわしがとれないんですもの。いくら一人あたりが高くても、それじゃ内地にいたのと同じだもの……」
 そこで、シンガポール、バンコク、海南島、マニラと移り「最後はラバウルだった。「私はそこで××という小料理屋のおかみの代理みたいなことをやって、女の子たちの監督もやっていたんです。もちろん私自身も体を売ったわよ」
「××は海軍専用の小料理屋、といっても目的は女よね」「飲んでいるうちに手をひっぱってちょんの間をやるの。そして終わると20円か30円くらい握らせて、また仲間のところへ行って飲むのね。
 すると今度は別の若い将校さんが手を握って。だから一晩に200円や300円稼ぐのわけはなかったわ」(3)

 南洋ラバウルで、将校相手で「一晩300円稼ぐ」のか。
 ビルマ派遣第55師団衛生隊として従軍した軍医少尉の証言。昭和18年11月、ビルマ・タラワジでの出来事。
 隊長が慰安所開設のため、現地人の慰安婦候補5人を集め、検診を命じた。
「5人のところに行くと、副官××中尉は、さっきからリーダーのM子と何やら話していた。そして、ときどき『高い、高い』という声が聞こえるので、料金のことを話しているのだなァと気づいた。
『いくらと言っているんですか』『1日1人、150円くれと言っている』。私も『それは高い』とすぐ思った」
 マレー・ペナンの慰安所開設経験で「兵1人が5円ずつ支払い、女が1日に15名を相手にすると仮定すれば、女の稼ぎは1日75円になる。だから、彼女らが1日150円を要求するのは、ちょうど2倍の値段であって高すぎると感じた」
 値段交渉ははかどらず、先に検査を実施すると5人中2人だけ合格だった。
『2人で150名を賄うということは、ちょっと無理だなァ。今日はなかったことにしよう』と中尉はいった」(4)

 ビルマでの、その価格も、昭和20年になると、急騰するのである。野戦重砲兵第5連隊の大隊付主計少尉の証言。
「ビルマ人が売りにくるドリアンが一個50円も60円もし、大福餅一個が20円もするようになっていった。
 戦局が日本軍にきわめて不利に展開していたので、ルピー軍票の価値は目に見えて下落していく。いつのまにか5円札以下の軍票は通用しなくなり、10円札と100円札でしか、ビルマ人から物が買えなくなってしまった」「少尉であった私は俸給の70円83銭(年俸850円の12分の1)を留守宅送金にし、戦地増俸の105円を現地で支給をうけていた」(5)

 現地の物価高騰に加え、戦況も加味される。第49師団歩兵第168連隊上等兵の証言。昭和20年ごろのビルマ・メイミョウの出来事。
「××、××と3人で午後慰安所へ行ったが、千円といわれびっくりした。
 1回5、60円のはずなのに、どうしてそんなに高いのか聞いたところ、其の日の午前中2回も爆撃を受けた上に、高級将校から状況の悪い事を聞いており、荒稼ぎでなければ商売する気がないと聞き、金は全員塩を売って沢山持っていたので、千円を払って遊んで来た」(6)

「塩を売って」というのは、おそらく部隊の塩をビルマ人に売ったのだろうか。この手の金策は日常茶飯事のことだったようだ。
 ラングーンに司令部のあったビルマ方面軍の後方参謀の証言がある。

「ある夜、自動車廠が爆撃を受け、私は現場に急行して後始末を終わり、帰途、粋香園の前を通ったとき、いつものようにたくさんの車が並んでいた。こんなところで爆撃にあって討ち死にすれば、末代まで恥を残すのにと思いながら宿舎に帰ったら、途端に電話がかかった。
 受話器を取ると、某課長である。『粋香園に爆弾が落ち、防空壕が崩れて芸妓数名が負傷したから、すぐに軍医をよこしてくれ』というのである。
 前線では食うや食わずで、連日激戦をつづけているのに、一体、何を考えているのかと思ったが、家計を助けるため遊里に身を沈め、ビルマの地まで送られて来た身の上を思い、軍医に連絡して救助に行ってもらった」
「戦後ある会合で、『戦時中に私は、部付将校を連れて偕行社に行き、月に一度か二度すき焼きを食べたら、月給は空っぽに使い果たしたのに、値段の高い粋香園が、連日繁昌していたのは理解できない』と言ったところ、
『ガソリンやその他の軍需品を、少し横流しすれば悠々と1か月遊べたのに、方面軍の後方主任がそんなことを知らないようでは、戦さに負けるのも無理はない』と笑われて、まったく二の句がつげなかった」(7)

「2万円を超える貯金」を蓄えていた朝鮮人慰安婦の郵便貯金通帳を見ると、昭和19年までは、一回の預け入れが三桁、百円台であった。
 それが、ラングーンにいた昭和20年になると、四桁に跳ね上がる、4月4日5560円、4月26日5000円、5月29日になると、1万円。敗戦後、9月29日では300円と急減する。
 メイミョウで、1回1000円というから、ラングーンもかなりの金額になっていたのだろうか。

 陸軍独立飛行第71中隊の特攻隊員が、インド洋カールニコバル島から台湾・台北への集結命令を受け、途中、乗機を修理するため、ベトナム・ハノイに滞在する。昭和20年6月のことだった。
「夜、大きな酒場(当り矢)という店を訪ねた。女の人も50人ぐらいいたでしょうか」「女の人達は殆ど唐ゆきさん、客は軍人、軍属が多いようだ。店は盛況」「(同行の)少尉と私は飛行服に軍刀を吊ってのいでたち」「テーブルの一つに腰をおろす」
 年増の女が2人、やってくる。その一人は「『自前(借金が皆無であること)で働いてお金を貯めたって、いつ日本に帰れるかわからないのに、無理して働かないことにしたの、お金が必要なら上げるわよ、私がおごる、呑みましょうよ』。
 私より3つ4つ年上だろうか、目鼻立ちの整った、美人というより、商売柄、円熟した妖艶さが漂っている女だった」
「呑むほどに酔うほどに、すっかり意気投合、建物の三階から上層は、アパート形式の個室になっていた。彼女の部屋で呑みなおし、三味線を弾いて、端唄、小唄を唄いながら」「『芸者の頃の昔にかえったみたいよ』と喜び、はしゃぐのは彼女だった」
「狭い部屋ながら、世帯もできるようになっている。翌朝、彼女はかいがいしく朝食の支度をしてくれるなど、心洗われる思いのすがすがしい、ハノイの朝でした」
「飛行機の修理が出来上がるまで、彼女としばし同棲することになってしまった。
 そして、『ぜひ和歌山にいる目の不自由な妹に届けてほしい』と、拾円札で『3万円あります』といって差し出し懇願するのでした。
 血の出るような思いで貯めたお金であろう。綺麗に伸ばした拾円札が、百枚束で30個行李の中から出して並べた。私は女の執念を思い知らされたようだった。
 しかし、私たちが台湾に集結するのは、何のためなのかわかっていたし、行きて日本の空を見ることはないだろうと覚悟は決めていたし、気持ちはよくわかるが、願いをかなえることはできないことを噛み砕いて話した。
 やっと納得した彼女は、『それじゃ、これだけ、あんたにあげる、せめてお金がなくなるまででいい、ハノイのことを忘れないでください』と、一掴みの札束を私に握らせて、断っても断ってもがんとして承知しなかった」(8)

《引用資料》1,大林清「玉の井挽歌」青蛙房・1983年。2,井上雪「廓のおんな」朝日新聞社・1980年。3,戦中派の会「続・戦中派の遺言ー女性版」櫂書房・1979年。4,笠置慧眼「ああ、策はやて隊」私家版・1990年。5,浜田芳久「ビルマ敗戦記」図書出版社・1982年。6,都築金光「ビルマ戦線"地獄の霊柩車隊奮戦記"第49師団歩兵第168聯隊手記集」私家版・1975年。7,後勝「ビルマ戦記ー方面軍参謀 悲劇の回想」光人社・1996年。8,中本昇「われら独飛71のあしあと」私家版・1987年。

(2022年1月8日更新)



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