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[2018年10月31日水曜日]進んできた歩みは違うけど、違わない。

 進歩が優れている、と思うことは錯覚かもしれません。
 なぜなら、それはただ進んだ歩みに過ぎないからです。
 その歩みに、どちらが優れているなどないような気がします。
 違うけど何も違わない。そんな人の歩みの物語。錯覚の中を旅する旅人。

テツガクちゃん
 気づいてしまいました! 私!
 進歩することが優れていると思うのは、錯覚かもしれないことに!
 
 『朝から遠ざかり、夜に近づいても、いつか朝になる』の話で、技術も繁栄と衰退を繰り返す、と話しましたよね。


肯定
 そうだね。
 繁栄と衰退の繰り返しが技術進歩を生む。
 だけど、これが錯覚かもしれないの!?


テツガクちゃん
 かもしれないですよ。
 これは一つの可能性です。

 繁栄と衰退を繰り返し、その蓄積から技術は進んだ、と感じると思います。
 ですが、これが錯覚であるかもしれない、という可能性です。
 
 なぜなら、人の感動は変わらないからです。
 昔のゲームも今のゲームも、夢中になった時の気持ちは同じです。
 
 技術を受け取る私達の答えが『同じ感動』である以上、『どちらが優れている』というのは錯覚なのかもしれません。


肯定
 そうかも!

 野球で考えると、昔は総合力が高く、今は質が高い、という感じ。
 エースが一人で試合を投げきる。個人としての総合力。
 今は一人一人の質が高く、専門職が活躍する。
 
 これらは視点の違いに過ぎないね。
 だけど、『野球が面白い』という気持ちは変わらない気がする。

 昔の方が人気があった、とも言うけど、昔にはなかったものが今にはあるからね。
 でも、野球が好きな人の気持ちは、昔も今も違いはないよね。


テツガクちゃん
 そうですよね。
 総合力から遠ざかり、質に向かって進めば、総合力を失います。
 それに気づき質から離れながら、総合力に進めば質を失います。
 
 これらの繰り返しにどちらが優れている、ということはないと思います。
 進歩が『優れたこと』と思うのは、錯覚に過ぎないのかもしれません。


肯定
 進んできた歩みと書いて、進歩だもんね。

 優れていると言うより、ただ進んだ歩みに過ぎないのかもしれない。
 その歩みもこれまでと違うようで、実は違わなかったり。

 例えば。
 どの時代でも、『過去を懐かしみ、未来に期待する』という同じ気持ちを共感できるのかもしれない。
 今、昔がよかったと過去を振り返る時、未来も今がよかったと振り返っていたり。
 
 案外、本質的な部分は、どれだけ歩みが進んでも変わらないのかもしれないね。


テツガクちゃん
 きっと、そうだと思います。
 そういう意味で、進歩が必ずしも優れているわけではなく、その進んだ歩みにも大きな違いもない。

 私達はそういう大きな錯覚に生きて、歩みを進めている、と考えることもできます。

 そう考えると、今を過去や未来と比べて、その違いを気にする必要はないですよね。

 それらは、今と同じところにあって、そこを歩む人の気持ちも変わりません。
 きっと同じように、今この瞬間に何かを感じるはずです。
 現在の今、過去の今、未来の今。全て同じ今この瞬間です。

 進んできた歩みに大きな違いはなく、だけどその道のりは凄く個性的。

 『違うのと同時に違わない』から錯覚だと思うんです!
 とても愉快な旅ですよね。錯覚の物語という。


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それでは、また次の機会にお会いしましょう。



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