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朝の声

今は陰湿な空気が消えない庭。
これを通らねば家の敷地からは出られない。
学生時代の侑介さんは、この庭が好きだった。

当時、彼の母親は華やかな庭園に憧れていた。
吹き抜ける風と木漏れ日。
レンガを並べた小道。
そこに生垣のようにして並べられた膝下ほどの高さの庭木。
庭には常に季節の花々が咲き乱れていた。
侑介さんにとっては、母のように明るく華やかな場所。
更には、学校に向かう時だけ、こんな声が聞こえた。

『オハヨウ。イッテラッシャイ』

ある日は『オハヨウ。ケシゴム』。
また別の日は『オハヨウ。クツヒモ』。
挨拶だけの日もあれば、何かの単語を告げてくることがある。
確実に九官鳥やインコなどの鳥ではない。しかし人間でもなさそうな抑揚のない声。
聞こえてくるのは、決まって低い庭木の下側からであった。

告げられた単語の物は、必ず失くなるか壊れる事になる。
ケシゴムの時は、筆箱の消しゴムが失くなり、好きな女の子が消しゴムを貸してくれた。
クツヒモの時は、マラソン大会の直前に靴紐が切れてサボることができた。
朝の声は、願いを叶えてくれるのだ。

とても気持ちのいい朝。
『オハヨウ。オカアサン』

思わず、その場で立ち止まった。

--今、お母さんって?

庭木の下を覗き込む。
地面からは白い細長い陶器のようなものが5本突き出ていた。
なんだこれは、と考えていると手のようだと考えが至った。
胸騒ぎがし、家の方を見る。
窓越しに母親が部屋の中で動いていた。
母親は侑介さんの視線に気付き、手を振る。
「なんだ。やっぱり聞き間違いかぁ。でも、オカアサンって響きに似た言葉ってなんかあるかな……」
侑介さんは手を振り返し、学校へと向かった。

この日を境に、母親は庭の手入れをしなくなる。
あの声も聞こえなくなった。
そして地面から突き出た5本の指の骨。
これも見つけることが出来なかったそうだ。

現在、庭は荒れ放題でけもの道かのようになっている。
綺麗にしたくても、次は誰が連れていかれるかわからない。それが恐ろしいと侑介さんは教えてくれた。

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