フィレンツェ共和国の終焉
Fine della Repubblica di Firenze
ウルビーノ公ロレンツォの死後、フィレンツェの統治はフィレンツェ大司教だったジューリオ枢機卿が行っていました。
しかし、ジューリオがクレメンス7世として教皇に選出されると、あとを託されたのはヌムール公ジュリアーノの庶子イッポーリト(1511-1535年)と、教皇自身の庶子で表向きはウルビーノ公の庶子ということになっていたアレッサンドロ(1510-1537年)の2人でした。
Ritratto di Ippolito de' Medici, Tiziano Vecellio, 1532-1534 circa, Olio su tela, 139×107 cm, Galleria Palatina, Firenze
Ritratto di Alessandro de' Medici, Giorgio Vasari, 1534, Olio su tavola, 157x114 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 83), Firenze
クレメンス7世は、幼少の2人の補佐役として腹心シルヴィオ・パッセリーニ枢機卿を送り込み、レオ10世と同じように、ローマから間接的にフィレンツェを統治しました。
イッポーリトとアレッサンドロは傲慢で粗暴な性格で市民から嫌われ、コルトーナ出身のパッセリーニも陰険で貪欲な人物として恨まれていました。そして、それに加え、ローマから重税が課されたため、フィレンツェではメディチ家に対する反惑が強まりました。
1527年、フィレンツェに「ローマ劫掠」の報が伝わると、共和派と反メディチ派が一斉に蜂起し、メディチ家の2人の若い当主、イッポーリトとアレッサンドロ、そしてパッセリーニ枢機卿を市から追放して、再び「正義の旗手」(Gonfaloniere di Giustizia)を元首とする共和制が打ち立てられました。
しかし、1529年6月、バルセロナにおいて教皇クレメンス7世と皇帝カール5世の間に和平が成立すると、皇帝カール5世はメディチ家の世襲支配者としてフィレンツェに帰還することを約束しました。(翌1530年3月、ボローニャで、教皇クレメンス7世はカール5世に「ロンバルディア王」および「神聖ローマ皇帝」の冠を授けます。)
Clemente VII incorona Carlo V, Baccio Bandinelli, Salone dei Cinquecento, Palazzo Vecchio, Firenze
穏健派はクレメンス7世との妥協案を提案しましたが、反メディチの強硬派が多数を占めたため、武力による衝突は避けられない状況になりました。市民軍が召集され、市の要塞化が進められました。このとき、ミケランジェロは市政府から軍事九人委員の一員に任命され、要塞化工事の監督に当たりました。
その年の夏、フィレンツェはオランジュ公フィリベールに率いられた4万の皇帝軍に包囲されました。
Assedio di Firenze, Giorgio Vasari, 1558, Affresco, Sala di Clemente VII, Palazzo Vecchio, Firenze
ペルージャの傭兵隊長マラテスタ・バリョーニを総司令官とするフィレンツェ軍は、勇猛な指揮官フランチェスコ・フェッルッチの英雄的な活躍もあり、多数の死者を出しながらおよそ10ヵ月もちこたえました。
Francesco Ferrucci, Galleria degli Uffizi, Firenze
しかし、1530年8月にフェッルッチが戦死すると、バリョーニの裏切りもあり、フィレンツェはついに降伏しました。政府の指導者たちは処刑され、多くの反メディチ派市民が永久追放になりました。
こうして、フィレンツェ史上でも最も凄惨な「フィレンツェ包囲戦」の敗北によって、フィレンツェの共和制の歴史は幕を閉じました。
クレメンス7世はメディチ家のフィレンツェへの帰還を慎重に行いました。まず側近の枢機卿を送り込んだうえで、翌1531年、20歳になっていたアレッサンドロを再び統治者としてフィレンツェに復帰させました。
アレッサンドロは1532年に皇帝カール5世からフィレンツェ公の称号を受け、メディチ家は名実ともにフィレンツェの君主となりました。
イタリア戦争のなかで目まぐるしく翻弄され、教皇としてさまざまな妥協と屈辱を強いられてきたクレメンス7世が、最後の希望をつないだのは、メディチ家自体の安泰と繁栄でした。このためにクレメンス7世は、皇帝のみならずフランス王家とも縁組によって緊密な関係を保とうとしました。
クレメンス7世は、フィレンツェ公となったアレッサンドロと皇帝の庶出の娘マルゲリータ・ダウストリアとの縁組を準備する一方、メディチ家兄脈の血を引く唯一の女子カテリーナ(当時14歳)とフランス王家との縁組を望みました。
Ritratto di Caterina de' Medici, Olio su tela, 194x110 cm, Galleria degli Uffizi, Firenze
父ウルビーノ公口レンツォとフランソワ1世の従妹にあたる母を出生直後に失い、孤児として修道院で育ったカテリーナは、伊達男で知られた従兄の枢機卿イッポーリトと相思相愛でしたが、クレメンス7世は2人を引き離し、以前から話のもちあがっていたフランソワ1世の第二子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワ(のちの国王アンリ2世)との縁組交渉を進めました。そして、巧みに皇帝の承認をとりつけ、1533年10月、マルセイユに自ら赴いて結婚式を執り行いました。
Il matrimonio di Caterina de' Medici ed Enrico di Valois, Giorgio Vasari, Affresco, Palazzo Vecchio, Firenze
カテリーナ・デ・メディチ(フランス名カトリーヌ・ド・メディシス)は、やがてフランスの宮廷で知性豊かな王妃に成長し、夫のアンリ2世の死後は、次々に王位に就いた3人の息子の摂政として、30年にわたってフランス宮廷の陰の支配者として君臨しました。
フィレンツェ/Firenze
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