調べて知ってさらに調べるほど新人・清原はヤバい

 さっそく。僕がnoteに記事書いてみたいと思ったトドメのきっかけです。

 知人がTwitterにて「パ・リーグには5年周期でスターが現れる」とつぶやいたのだけれども、僕はパ・リーグの歴史上最初のスターは清原和博であるという持論を持っている。

 わかってはいるけれど、パ・リーグには清原がプロ入りする昭和61年以前にも、大打者とされるバッターは多数いる。数々の歴代2位記録を保持した野村克也や、三度の三冠王落合博満、史上ただ一人の日本球界3000安打の張本勲などなど…。彼らもスターであったことには間違いはない。

 ただ、野村にしても落合にしても張本にしても、初めから…言い方を変えると、プロ入り前からスターだったわけではない。野村は練習生扱いからのスタート、落合は大学中退など紆余曲折があり、張本も周囲からの不可抗力で甲子園で名を残すことはできていない。

 対して清原は「甲子園は清原のためにあるのか!」というアナウンサーの名調子が生まれるほど、人生で5回しか出場のチャンスがない甲子園で1年生から出場し、13本のホームランを描いたほどの大スター。同じように甲子園で名を残し、パ・リーグに入団した選手と言えば、マンガからそのまま飛び出したような風貌で、「ドカベン」と呼ばれた南海・香川伸行ぐらいだろう。そのドカベン香川も、デビュー戦でいきなり初本塁打を記録するなど出だしは悪くなかったが、チームが低迷期だったことや、自身がレギュラーに定着した時期が長くなかったこともあって次第に名前負けしていった感がある。

 清原がたった1年でプロ野球のスターになれた最大の理由は『甲子園の大スターのままプロ野球でプレーできた』ことにあったと思う。当時黄金時代を築きつつあった強豪・西武ライオンズに入団し、香川と同じくデビュー戦でホームランを放ち、少し壁にぶつかりはしたが、オールスター、日本シリーズという「打てば確実に記録にも記憶にも残る」大舞台でもホームランを放ち、シーズンでは31本塁打を放った。この記録は技術やトレーニング理論、道具も進化しつつある現代でも未だ破られない、というか破られる気配のない大記録である。清原以後も甲子園で怪物とされたスラッガーは多くいるが、高卒1年目で清原に、最も近づけたのは巨人の松井秀喜ぐらいで、彼ですら三分の一ほどの11本塁打にとどまっているし、直近では史上最多の高校通算111本塁打を記録した日本ハム・清宮幸太郎ですら7本塁打に終わっている。王貞治の通算868本塁打も破られる気配はないが、年数を重ねられればまだチャンスがある。しかし、清原の記録は「高卒1年目」の一度きりしか挑戦する権利も破る権利もないから、その壁はより高い。もっとも、球場の広さやピッチャーの平均球速も格段に上がっているから、いきなり打つのも難しいことは確かだ(90年代は140キロ後半で「速球派」だったのが、今では同じ球速で曲げたり落としたりできるピッチャーがいるわけだし)。

 ただ、清原の場合、入団にもドラマがあった。巨人入りを熱望していながら指名すらされず、涙を流したという「画(え)」が多くの野球ファンに強く残り、「打倒巨人を果たす」というストーリーの付加価値がついた。そしてプロ2年目にそれを果たし、直前には試合中にもかかわらず守備位置で人目、テレビ中継をはばからず号泣という色も添えられた。そして彼のストーリーはそれで完結せず、同じ時期に若きライバル投手が他球団に入団したことで、「エースVS四番打者」という“第2章”が続けざまに始まったことが、清原を不動のスターへと押し上げた。西崎幸広(日本ハム)、阿波野秀幸、野茂英雄(ともに近鉄)、そして伊良部秀輝(ロッテ)…。同じ時期にファミコン、スーパーファミコンが発売され、テレビゲームでも再現可能となったことも大きな後押しになったと言える。

 つまり清原和博は、ドラフト前からスターであり、そのままプロでも結果を出し、時代にすら恵まれた、まさに稀有な存在だったわけである。


 じゃあイチロー(オリックス)はスターじゃないのか?ということはあると思う。ただ、それは後々話すつもり。今回はここまで。

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