97年の巨人は首切り対象を明らかに間違えていた

 いやあ~オリンピックの野球は危なかった…。山田の憤死でどうなるかと思ったけど。まあ、ガン無視してここはちょっと前のプロ野球を語ろう。

 90年代のプロ野球は今ではあまり見られない長期政権が各球団で乱立していたけど、黄金期を築いていた野村克也監督のヤクルトと森祇晶監督の西武と比べて戦績は芳しくないが、華やかさでは圧倒的に群を抜いていたのが、いわゆる第二次長嶋政権である。

 長嶋茂雄監督復帰初年度の93年はドラフトで松井秀喜を引き当てた以外は、これと言って戦力的な補強(息子一茂の加入は話題性のほうが大きいい)がなかったが、同年オフから始まったFA制度によって、ざっくり言えば他球団の大物を金の力で引き抜けるようになり、徐々にオールスター軍団を形成していった。最初こそ中日から落合博満を獲得したにとどまった(そもそも球界全体で5人しかFA宣言してない)が、翌95年はヤクルトから広澤克己とジャック・ハウエル、広島から川口和久、トレードで近鉄から阿波野秀幸、さらにはストライキの影響もあってバリバリ現役メジャーリーガー、シェーン・マックも獲得した。これは、あの「10.8」を制し、そのまま日本一まで駆け上がった94年はチームの攻撃力は中程度であり、かつ投手陣にも強力なサウスポーが不在だったこともあり、連続日本一に向けてその穴を埋めようという、実は合理性もあった。結果は貯金14ながらリーグ3位と実りはしなかったが、これを上回る大スベリ補強が、96年のオフだった。

 まず西武から清原和博をFAで、近鉄から石井浩郎をトレードで、ロッテから長身サウスポー、エリック・ヒルマンを獲得。パ・リーグを代表する四番打者を二人、タイトル争いができるレベルのピッチャーを加えたわけだが、その裏で落合とマックの首を切っている。おそらくこの判断が97年の巨人をどん底に叩き落とした要因だったと思う。特にマックの解雇が歴史上に残る愚策だったと断言できる。

 97年以降、松井の定位置はセンターにスライドしたが、個人的に松井はセンターのタイプではない。肩は強かったが、このころの松井はライトの守備でもポカが少なくなく、レフトに定着した清水隆行も決して守備に秀でたタイプでない。この二人を驚異的な守備範囲で支えたのがマックだった。肩は強くはなかったが、そもそもメジャーでも名の知れた外野手であり、当時の投手陣からすればその存在はかなりありがたかったという。加えてバッターとしても五番に座り、2年連続で20本塁打をマークし、しかも来日2年目は前年比で打撃三部門(打率・本塁打・打点)すべてを向上させており、普通なら契約を更新してもおかしくなかったのだ。だが、4億円という年俸、さらに前述した肩の弱さを日本シリーズで突かれたこともあって解雇。ただ、その後のルイスをはじめ自前(要は日本未経験)のルートで獲得した外国人は96年最多勝のバルビーノ・ガルベスを除いて投打ともにことごとく滑り倒したことも加味して考えると、未だにマックの解雇は誤りだったと言わざるを得ない。

 落合の退団にしても、会見で「長嶋監督が自分に気を使って悩む姿は見たくない」と語っていたが、もし長嶋監督が「清原を育ててくれないか?」と頼んでいたらと…そんな夢物語を想う。もともと清原は落合を師と仰いでおり、そんな選手と同じユニフォームを着れるのなら目の色が変わって一皮むけていたんじゃないか、加えて西武時代にはサードの経験もあったことを考えると、「ファースト落合、サード清原」なんていうすごい内野陣が生まれていたのかもしれない。もちろん、守備は度外視気味なので終盤には守備固めをする必要はあったが。

 97年、もし落合とマックが残っていると想定して巨人のオーダーを考えてみるとこうなる。

二 仁志 
遊 川相
右 松井
一 落合
三 清原
中 マック
左 清水
捕 村田

 直前の日米野球で三番と四番を打っていた松井と清原が並ぶだけですごい陣容になる。そして思うに、落合の選手生命も2000年ぐらいまで伸ばせたんじゃないかなと思わずにはいられない。何せ、2年連続で打率3割かつ3年連続二けた本塁打をを40代でクリアしていたのに、日本ハムに移った途端2年で5本塁打と、まるで何かが抜け落ちてしまったような急降下。長嶋監督のために。そんな一途な思いの巨人時代だったのではなかろうか。

 なんてことを長々と思っている。97年のオフ、あのナベツネが「そくでなしばっかり取りやがって」とぶちぎれてフロントを粛清したそうだが、至極当然だった。なんてことをちょっと前のプロ野球を調べる中で思うようになったのだけれど、同意してくれる人はいるんだろうか。

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