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今、思うこと。【カンボジア滞在3週目】

カンボジアに住み始めて3週間が経った。
Rainy Seasonだからまだそこまで暑くないらしいけど、日差しは痛いし湿気すごいし…。突発的な大豪雨の後は道が池にも川にもなるし、その後の快晴はより湿度をあげていく。うぅ、頭がくらくらしてくる。。。
苦しくて楽しくて、めっちゃ暑くて…そんな日々を過ごしている。


言葉は必要だけど、言葉ではない何かの方が大切。
これは日本にいたころから感じていたことだったけど、こちらに住み始めてからより強く感じるようになった。

幼いころから人の目を気にする性格で、先生の前や友人の親の前ではいい子ちゃんを演じ、誰かの表情や感情を常に観察・洞察することが当たり前だった。
だから、基本的に非言語的なコミュニケーション、表情とか雰囲気とか振る舞いとかから、この人は今こんな感情なのだろう、こんなことを考えているのかな、みたいなことを想像して、それに対する最適な対応をすることをしていた。

僕自身が醸し出す非言語的なコミュニケーションも、常に何かを意図していることが多い。
プロを目指す子どもに対するコーチングのとき、あそんでいるとき、友人といるとき、初対面の人と会うとき…様々な場面で使い分けているなと思う。

それに関しては、よいと思う反面わるいと思うこともあるような、矛盾した感情がある。演じて、というのは僕自身の基本性能であるので、素直に自分を曝け出す、のように誰に対しても素でいられる人がうらやましいなと心から思うこともしばしば。

つい先日、現地で活動を共にする友人から、サッカーの指導が終わって軽く共有をしている際に「今日不機嫌だった?〇〇コーチから、『Tetsuが体調悪いのか寝れていないのか、とても機嫌が悪そうに見える。』と言われたんだけど…」と伝えられた。自分では意図せず、周囲からはそう見えていたらしい。
自分は、言葉や意図が伝わり切らない、だからどうすればよいかな~と考え事をしていただけだった。しかし、周りからはそう見えていなかった。
猛省。雰囲気などを意図して出せている、と思っていたがそうではなかったということもそうだが、コーチにそう思われていたということは、子どもはそれよりもっとそう感じていたに違いない。

人に会ったり人といたりすることは好きなのだけど、人といると感情や思考がうるさくなって、自分の内側がぐちゃぐちゃになっていくことも多い。
人が好きだけど人が嫌い、なんて言う部分はきっとそんなことが起因しているのだと思う。

…脱線した話を戻そう。
日本では、非言語的なコミュニケーションを様々な場面で使用していても、多くの場合相手は日本人で、言葉は通じる相手(話が通じない、ということはままあるが)なので、言語的なコミュニケーションで解決できる。
英語やフランス語、その他言語を扱うことができれば、それらの言語を扱う人に対しては言語的なコミュニケーションで日本にいても解決できる。

今僕がいるカンボジアでは、基本的に英語で言語的なコミュニケーションをとっている。クメール語も簡単な単語だけをたまに使うことはあるが、相手に話されてもまず聞き取れないので、クメール語を使用する際はこちらからの一方的な言語的なコミュニケーションに限定される。

こちらから何かを伝えようとする相手が、英語を扱うことができる人であれば何も問題がないのだが、クメール語しか扱えない人となると、言葉で何かを伝えることは厳しい。。。
あちらから訴えかけられても、何かを伝えようとされてもなにも届かない。

だからこそ、言葉ではない何かで、何かを届ける/受け取ることを大切にしている。

例えばコーチング中。
まったく英語の話せない子どもたちに対して、デモンストレーションや身振り、表情など使えるものを総動員して、意図を届ける。
子どもたちの行動や表情などから理解度や感情を受け取る。

例えばローカルお店のおっちゃん。
英語が使えないものだから注文とかもはやカオス。
とりあえずメニュー表を指さしたりほしいものを持って行ったりして、「これをください」の意図を届ける。だいたいそれでOKなのだけど、たまに「他にこれとこれがおすすめだからこれもどう?」のようなことを返してくる。当然、言葉で。わからないので、???を顔で表す。もう一回来る。???で返す。指で何かを指される。首を横に振る。こちらの意図が伝わったのか、奥に戻っていく。もしくはお会計になる。

言語が共有されない場合、他の何かで伝え合うことが必要である。
それをどうやって伝え合うのかは、自分と相手次第である。

一方で、言葉が共有されても、そのニュアンスが異なることも多々ある。
同じ英語を使っても、同じ日本語を使っても、解釈が異なることがある。

だからこそ、言葉ではない何かで正確に伝えられる手段を持っていることは、とっても大切なことだと思う。


3週目は、ちょっと疲労感が出てきた。
思い通りにいかないことがほとんど、ということが頭の中で分かっていても、やはり思い通りにいかない現実に直面すると、何かの変化を起こすためにパワーが必要になる。

そのパワーが多方面に今必要とされていて、多分、ちょっとだけ自分の予想とキャパを超えるものになってしまっている。
だから、やっていて楽しいけど、精神的にすり減っているのだと思う。

そんな時に、日本でずっとお世話になっている方とお話する機会をいただいた。
現状やメンタルの状態、思考などの共有をさせていただき、言われた一言。

「てっちゃん。『俺は自由だぁーっ!』ってカンボジアで叫んだ?」

はっとした。
先の大きな目標にばかり気を取られ、目的を見失っていた。

そもそも、日本の会社を辞める決断をして、日本を離れこの地に飛び込み、やりたいことを始める。
それそのものが尊く、その時点で一種の成功であることは間違いないのに。

楽しんでいると思い込んで、楽しんでいる風を装っていた。
焦りと不安に思考の舵を取られ、先ばかりを見て今を生きていなかった。
心の底から楽しんで、笑顔になるという時間がなかった。

やらないといけないことをするのではなく、やりたいことをやろう。

好きに正直に、自由な生き方を支える事業を展開する人が、誰よりも縛られていたら、何も説得力がない。
だからこそ、誰よりも自由に、誰よりもその時間を心から楽しむ人でいる。

どのように在りたいの?
その在りたい姿を今の時点の自分で生きてみよう。
そうすれば、現実が自分に追いついてくる。


今やっていることもこれからつくる事業もプライベートも。
全部やりたいことをやろう。そのためにここにいるのだから。

とりあえず、
「俺は自由だぁーっ!」
をどこかでやってみますね。

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