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複数の師に教えに乞うべし、そして師を取捨選択すべし。

俳句を始めて2年。まだまだ初心者だ。そんな下手の横好きでも、すでに、タイトルのようなことを思い始めている。この経験から一般則を導き出せそうなので、書いてみる。

私のごとき初心者に、首を傾げられてしまう俳人

私は、プロ俳人が主宰する4つのネット句会に参加したが、先月限りで、そのうちのひとつから抜けた。また、このまま参加していていいのかな、と思う句会がもうひとつある。つまり、初心者にすら、そう思われてしまう俳人が、複数存在する、ということである。

その句会から抜けた理由は、主宰の先生の知識や経験のなさ・乏しさに起因すると思われる、鑑賞眼のレベルの低さだ。

この先生は、たしかに技術はものすごい。発想も、詩情も、添削も冴え渡っている。しかし、このままこの方に御指導を受ける意味はないな、と思うに至った。いわば、この先生を「見限った」。

見限った経緯

例を3つ挙げる。ヘボ句ばかりなのはご容赦願いたい。

白百合の雄蕊を切るや大安日
雄蕊を切る必然性が不明。

百合の雄蕊を切る意味を、知らない。

扇風機われわれは宇宙人である
動詞のある季語を。夏痩せてわれわれは宇宙人である

扇風機と「われわれは宇宙人である」の取り合わせでこそ生じる句意を全く理解できなかったのか、季語を変えられてしまった。添削後の句は、たしかにものすごいのだが。

法師蝉そろそろ読書感想文
7名もの方がとっていますが意味不明。

法師蝉が鳴き始めるのは旧盆を過ぎたあたり。これが意味不明とは、どのような人生を送ってきたのか。

このようなことが、幾度も繰り返されてきた。もしこのまま、この先生だけに師事していたら、なんかひっかかるけどそういうものなのかと、私の作風はどんどん歪んでいったに違いない。

幸い、私には、他のネット句会に、俳人の方々や日々投句して一緒に勉強する仲間がいらして、豊富な知識と教養によって句意を理解してもらえたり、意図していなかった情景を鑑賞してくださることが多々ある。

そんな方々がいるからこそ、いかな高名な俳人であろうとも、知識も教養も人生経験も不足していると判断せざるを得ない人の批評や添削など、私は必要としていない。

当然、俳句に限った話ではない

読者の皆様はお気づきと思うが、これは「人に教える」「評価する」ということすべてに敷衍できるものである。

対話にならぬ指導や評価を行い、知らないことを知らないといえずに不明と突っぱねる、フラットでもフェアでもない態度。それを説明したところでなんの打ち返しもなく、理解してもらったかすら教えてもらえない、誠実さにも謙虚さにも欠ける態度。このような教育者や評価者、つまり上に立つものが、教育されたり評価されたりする者、とくに、若者の信頼と尊敬を得ることができるだろうか。

私が、「師は複数いたほうが良い」と思うのは、そういうことである。まあ、その人たちから、それぞれの基準でものを言われて混乱することもあるだろうが(実際、日々混乱すること多々である)、たくさんの師を得れば得るほど、「自分で選ぶ力」も育てることができるようになる。むしろ、その「自分で選ぶ力」を育てることこそが、この際大切なのかな、と思っている。

師、ということに限らず、信用に足る、あるいは尊敬できる友人、先輩後輩、上司、教師、経営者、あるいは学校や職場でもいい、「自分から」選ぶことこそが肝要だと、強く感じている。


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