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東京散歩~偉人たちに会いに行こう!

みなさん、墓参りは済ませましたか?
僕も連休の間に何とか済ませました。ちゃんと行かなければ、お墓にいる祖母や祖父に挨拶できませぬ。やがて父や母も入り、僕も入る予定ではあります。故郷には、お墓に語りかけ世話するため、たびたび帰らなければなりませんね。僕が入るのは親の許可は得られましたが、周辺の人は許してくれるかな。その辺に捨てられるかもしれませんし、また入ったは入ったでうちの家系の黒歴史として忘れ去られることでしょうな。そして消えていく運命。それもまたよし。

ところで、僕は今、東京のベッドタウンである埼玉に住んでいます。東京とは言っても孤独死するだけの砂漠ですが、東京という日本文化や最先端の発信地、いろんなところに行ってみれば有名人に出会えるということがおきるのかもしれません。
しかし、僕の中にいる有名人たちの多くは、もうすでに歴史の中の既に亡くなった人々です。

これまで東京散歩の記事もいろいろ書いてきた僕ですが、東京を歩くとしたら、有名人や偉人たちに会いたいもの。お墓をひたすら巡り、「東京はディズニーばかりじゃないんだよ」というミーハーな観光スポットだけでなく、様々な「憧れの偉人たちに出会えるところ」という旅を紹介していきたいと思います。
そう、今回のテーマは「墓参り」です!!
マニアックなスポットでしょうか。とりあえず、アイドルやミュージシャン・俳優などではなく、歴史上の人物です。新撰組推しの方々はすいません、土方歳三や沖田総司などはまた後の機会になります。

歳をとると死を意識するもの、けどそうじゃない心が若者たちも、東京で偉人たちの思いに出会いに行きませんか?
(お墓は先人たちが静かに眠る場所です。尊厳をもって、さわがずゴミなどは出さず、静粛にして厳粛にお参りに行きましょう。)

雑司ヶ谷霊園

豊島区で池袋駅近く、東京メトロ(地下鉄)副都心線雑司ヶ谷駅から一駅分歩く、または都電荒川線(路面電車)雑司ヶ谷にて下車したほうが若干近い。まちがえて、世田谷の祖師谷(そしがや)に行かないでね。

閑静な住宅街でなかなかトイレが見つからないが、僕は途中の鬼子母神前の公園「雑司ヶ谷みみずく公園」で用を済ませる。また、霊園近くの「南池袋みどり公園」にも公衆トイレがあります。

小説家などの文人、または軍人の墓が多いかな? 

もともと江戸幕府の鷹狩場があった場所のようです。
池袋はもとは巣鴨村、今は一日の乗降者数世界3位(新宿と渋谷に次ぐ)だが、明治時代に駅ができるも関東大震災以前は閑散としていた。繁華街はあくまで巣鴨や大塚だった。
つまり閑静な空き地広がるこの雑司ヶ谷に大きな霊園をつくったのだろう。

雑司ヶ谷霊園で僕がまず出会いたかったのは、まず村山槐多。

村山槐多

明治・大正時代の画家であるが、22歳で夭折するまで多くの作品を描く。
放浪の旅、多量の飲酒、血を吐いて倒れたのを発見されたり、度々警察に保護されたり。ガランスという深い茜色・沈んだ赤色を使い、退廃的破滅的な雰囲気を纏わせながらみなぎる生命力を絵にたたきつけた。
スペイン風邪にかかり、夜9時にみぞれ交じりの嵐の中飛び出し、午前2時に畑の中で倒れているのが見つかる。うわごとで、かつて恋をした女性や男性の名などをつぶやきながら息を引き取った。高村光太郎は詩にて「強くて悲しい火だるま槐多」と哀悼している。

ギャラリーフェイクという漫画で知っただけですが、その人生に共感することは多いです。

東條英機

いわゆる「A級戦犯」としていわゆる太平洋戦争の後に極東国際軍事裁判(東京裁判)で連合国により一方的に処刑された人物。
司馬遼太郎や秦郁彦など否定的な評価など、評価は様々あるだろうが、東京裁判においては彼なりの責任をもって戦い、刑の執行を受けた。
東條英機の戦いがあったからこそ、事後法で裁くなどあってはならない違法行為の裁判である東京裁判が、のちに物語としても描かれ、多くの人に知られることとなっただろう。僕も「プライド 運命の瞬間」という映画を観て、さらに実際の「東京裁判」(ドキュメンタリー映画)も観るほど、本土空襲で戦争犯罪である一般市民の大量虐殺を行ったアメリカが日本を「戦争犯罪」で裁いたこの裁判に疑問を持っていた。
パル判事なども有名であるが、やはり東京裁判は東條英機をもって語られることも多い。「プライド」にても、パル判事や清瀬一郎、この裁判を「イッツ・ア・コメディ!!」と叫んだ大川周明(おまえ何したかったんや!?)などの多くのキャラ(人物)が描かれている。

大森捕虜収容所における東條英機。
のち池袋サンシャインとなる巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)に移送され、死刑執行された。

永井荷風

そこまで知っているわけではない。小説家とは知ってはいるが、江戸文化の名残ある戯作者というぐらい認識である。
南総里見八犬伝や東海道中膝栗毛などの江戸の名作に親しみ、関東大震災による人や景観の、古い江戸から新しく変貌をとげる東京を恐れ、花柳界や遊郭などを訪れて芸妓などと情事を重ねつつ、人生の周辺を描いていたのではないか。あたかもロートレックのようなイメージがある。
晩年の1959年3月には、行きつけの食堂大黒屋でかつ丼を食べた後に、自宅にて血を吐いた。胃潰瘍と吐血による心臓麻痺のようで、血の中にかつ丼の飯粒が混じっていた。
吉原の遊女たちの遺体が投げ込まれていた荒川区南千住の浄閑寺に、僕が荷風の存在感を大きく感じた筆塚と詩が刻まれている。荷風も何度も遊女を思い訪れた場所だ。

浄閑寺の詩碑にて。「今の世のわかい人々 われにな問ひそ今の世と また来る時代の芸術を。」「一葉落ちて紅葉は枯れ」「圓朝も去れり紫蝶も去れり」「柳村先生既になく」「鴎外漁史も亦姿をかくしぬ…」

その他(千葉定吉と重太郎、ジョン万次郎、小泉八雲、夏目漱石)

坂本龍馬が江戸へ剣術修行に来た時の、北辰一刀流千葉道場の師である。重太郎は龍馬とともに勝海舟を斬りに行くも、龍馬は「日本と貿易と海軍の必要性」を説かれた論説に感服し、勝海舟の弟子となり、日本は維新回天へ向かうこととなる。

雑司ヶ谷霊園の外観のようす。

勉強不足で北辰一刀流などの剣術の分類などにも興味持ててない僕にとり、坂本龍馬の江戸での青春期での視点でしか千葉定吉と重太郎親子は描けない。陳腐。
そして、千葉家娘の「さな子」と龍馬の恋愛関係。さな子の片想いだったのかどうかも分からない。「坂本龍馬室」と刻まれた彼女の墓は、甲府市にあるようです。

坂本龍馬と同じ土佐人で、鎖国中にアメリカに渡って学び、幕末の薩摩と土佐と幕府にアメリカの情報と英語と造船の知識を教えたジョン万次郎がいる。

ジョン万次郎という名前は1938年井伏鱒二の「ジョン萬次郎漂流記」により知れ渡った名で、ふだんは中濱萬次郎(中浜万次郎)でアメリカではジョンマン。14歳の時に出漁中に遭難し小笠原諸島の島で食いつないでいたところアメリカに保護される。他の漁民たちはハワイなどで下船したが、万次郎はアメリカに行くのを望み、現地の学校で猛勉強した。
のち、アメリカの計らいで琉球から薩摩にわたり、島津斉彬に請われ造船技術などを教える。幕末の薩摩藩の軍艦知識などは飛躍的に伸びたのだろう。
また、土佐にて吉田東洋の命令で河田小龍が取り調べを行い、河田は本にまとめる。河田は坂本龍馬の人生「海防と貿易」に大きな影響を与えたが万次郎の知識を大いに伝えた。
また、幕府に招かれ川路聖謨にアメリカの情報を伝えたほか、スパイ容疑で通訳から外されるもペリー対応と日米和親条約交渉に暗躍。大鳥圭介や箕作鱗祥などにも英語を教え、咸臨丸では船酔いで役立たずだった勝海舟に代わりジョンブルックとともに指揮をとる。
明治維新後は開成学校(現・東京大学)の英語教授として活躍する。

そして、小泉八雲。ギリシャ人・ラフカディオ・ハーンはアラブとの混血でもあり、アイルランドやフランス・アメリカ・西インド諸島や日本を放浪。
「いかなる土地でも人間は根底は同一」という考えか、日本の文化や伝統・風俗習慣に興味をもち「怪談」を著す。
日本各地の妖怪などの怪奇を全国に知らしめ、妖怪は戦後に漫画家の水木しげるによりキャラ化され、各地の民俗伝承だけでなく現代日本のサブカルチャーとしても親しまれている。

さて、明治時代を代表する小説家といえば、夏目漱石でしょう。
でしょうが、僕はあまり読んだことなく。「坊ちゃん」と「門」ぐらい読んだ記憶はあるが、内容は覚えていないため、坊ちゃんの断片を辛うじて思い出せるぐらいで、門を読んだのは多分僕の夢の中だったかもしれません。
しかし、夏目漱石の長男・純一の長男・房之介先生の漫画評論は素晴らしく、僕の中で漫画評論の第一人者です。

上が房之介先生、まだ御存命です。BS漫画夜話は貪るように観たなぁ。大学でも教鞭をとっておられる房之介先生のさらなるご活躍が楽しみです。
下は祖父にあたる漱石。下のお墓は漱石のものです。
朝日新聞と岩波書店も出資したのでしょうか、比較的立派なお墓で見つけやすいです。
なお、漱石の脳は東京大学にて保存されています。
漱石の意志を継いだ「漱石アンドロイド」は二松学舎大学にてたまに講演を行うようです。くわしくは同大学HPにて。

いろんな偉人たちに出会えたところで、そろそろ移動しましょう。
なお、僕が会いに行った人物は、あくまで僕が会いたい人々だけなので、あらかじめどんな人たちが眠っているのか調べておきましょう。
(個人的に、撮影するお墓さまには一礼をして、必ず合掌し冥福をささやかながら祈らせてもらうと同時に、「日本が外国の侵略の脅威に打ち勝ちますように」やら「日本の小説家が食べていけますように」など厚かましいお願いも捧げています。)

護国寺

さて、わりと「お腹いっぱい」な感じもあるが、徒歩わずかに護国寺があり。ここにも明治の元勲たちのお墓があります。

コンドル

まず、明治期の日本の建築学の礎を築いたジョサイア・コンドル。
鹿鳴館や上野博物館などをつくったほか、辰野金吾ら偉大な弟子を育てました。

山縣有朋

明治時代の派閥抗争にて長州閥を牽引したのは、良し悪しの評価もあるが、初代の陸軍卿として日本陸軍の整備の責任をもった。

鳥居つきの立派な墓で、門が閉まっていたため、隙間から撮影。

大隈重信

板垣退助の自由党とともに日本初の政党である立憲改進党をつくったほか、東京専門学校こと早稲田大学をつくり、山縣とともに明治時代を総理ともなり支えてきた。

早稲田講堂の大隈先生像。こういっちゃなんだが、いわゆる漫画で言う「への字口」の典型ですね。
への字口、威厳と硬い意志を思わせる表現です。

三條實美(三条実美)

長州派公家(京都の貴族)として、岩倉具視とともに活躍。けっして毛利「そうせい候」とともに、長州藩武士たちの神輿として担がれたわけではない…!? 幕末は七卿落ちなどの苦境に追いやられ、明治時代の混乱期に太政大臣という重責を担い、特に征韓論政変では征韓派や反対派に追い詰められ「デッドロック状態」に心臓を痛み倒れてしまい。

大河ドラマ「翔ぶが如く」のイメージしかないので、翻弄されいろいろ気に病み、大変だったんだろうなぁ…って印象です。

護国寺は、江戸幕府5代将軍綱吉の母・桂昌院の願いでつくられました。
なにやら長州感を強く感じますが、明治時代に幕府がなくなり資金が枯渇したため、明治政府高官たちに働きかけたのが所以みたいです。
長州藩閥の中心である木戸孝允の墓もあると思い込んでましたが、彼は京都の護国寺にいるようです。

日大豊山中高の隣にある文京区の護国寺。気づけば豊島区の雑司ヶ谷霊園から瞬時に文京区に移動していたわけですね。
立派な境内と、音羽富士をもつお寺さまです。
音羽富士。

さて、字数も5000字近くなったところで、①はこれくらいにしておきましょう。
次の②では、また別の霊園を巡ります。ここに、僕が会いたかった偉人がいます。
お墓参り、これも聖地巡礼の旅(散歩)と言えるでしょうか。
※あらためて、周辺にはさまざまな人々の家族や周辺の方々が大事にしているお墓があります。敬意をもって粛々とお参りにいきましょう。
お花などですが、僕みたいなただの素通りするだけの人間がお供えするのも迷惑と考え、ただ祈り撮影するだけにいたしました。



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