東京散歩 ~監獄をゆく
前回の東京散歩は、お墓巡りをテーマにお送りしました。
今回は監獄。すいません、僕は変態ですのでありきたりな東京観光案内ができません。
監獄とは、被疑者を拘束する留置所、刑事被告人だが未決拘禁者や死刑確定者を拘束する拘置所、受刑者を拘束する刑務所がある。
刑務所。警察に逮捕され取り調べを受け、そして裁判に起訴され、判決を受ける。いわゆる囚人と言われる人々が収監されている。
僕は日本の刑務所の調査はあまりできてなく、イメージとしてはゴールデンカムイという漫画の網走監獄、そして今でも最大の名作と思っている映画「ショーシャンクの空に」というイメージです。
ちなみに裁判の傍聴は一時期ハマってやってました。
印象深い裁判はいろいろありますが、嫉妬に狂った男性が女性を刺した事件。
刺されたが搬送され命を取り留めた女性の「背中を殴られたと思ったら包丁が刺さっていた」という衝撃的な証言とともに、弁護士が男性がいかに女性への愛情の高まり過ぎの上に起きてしまったのかを示すために取った戦略「ラブレターの朗読」(愛のメールを淡々とかつ延々と読み上げる)というものでした。「何時何分(数秒ごとに送ってるな!)、○○ちゃん、スキ!スキ!チュ、チュ!」とかをひたすら朗読してました。
また、女性に淫らな行為を行った大学生男子を守るため、母親が証言に立ったこと。傍聴席にて検察側が大学生の淫行を淡々と延々と読み上げる。
お母さまが延々と泣いているのを見て、またはいろんな事件を見て、「絶対に悪いことはできないなあ」と痛感したものです。
そんな話はさておき。
今回の東京散歩は、「監獄のあと」を巡って行こうと思います。
刑罰の道具(ややショッキングな処刑の道具が出てきますので嫌な人は飛ばしましょう)
ところで、御茶ノ水駅すぐの明治大学博物館にて多くの考古学資料や「刑罰の資料」を学ぶことができます。
刑罰の歴史をざっくりと
古代、はじめて日本を統一した朝廷においては、刑罰は律令により「笞(ムチ打ち)・杖(つえ打ち)・徒(懲役・強制労働)・流(遠方追放)・死(死刑)」があった。日本史で出てくる「笞杖徒流死(ちじょうずるし)」ですね。
死刑は絞殺や斬首があり、772年に盗賊や放火犯に対する撲殺が導入されるが、聖武天皇の治世では仏教の五戒の教えにより殺生を禁じるため禁忌となり、さらに平安時代810年の薬子の変以来は死刑があっても流罪に減刑するようになり、武士が台頭していく平治の乱にて藤原信頼らの処刑まで死刑は禁止された。
まあ、武士の世の死罪は、個人だけでなく家族ら一族郎党に連座する過酷なものになったが。
武士の世では、切腹、市中引き回し、獄門(斬首して首を晒す)、磔(はりつけ)、連座(一族郎党まで処分)、鋸弾き(のこぎりびき=生きたまま埋められ通行人に少しずつ首をのこぎりで弾かせる)などの残虐刑もあった。
切腹。平安時代に藤原保輔が逮捕後に割腹し獄中で果てた事件があったが特に作法ではなく、鎌倉時代末期に護良親王の忠臣・村上義光が身代わりとなり割腹し内臓を敵に投げつけ太刀を咥えて絶命する壮絶な最期を遂げた。
以降、豊臣秀吉の中国征伐にて敗れた備中高松城の清水宗治の潔い切腹に多くの人が感服した記録があるが、江戸時代にやがて作法化されたようだ。
江戸の監獄はじめ「伝馬町牢獄」へ
そんな刑罰を受ける人々を収監していた監獄。
古くは江戸時代に江戸・伝馬町牢獄が整備された。
1613年頃に江戸幕府により設置され、1875年明治8年に市ヶ谷監獄に移るまで長い歴史をもつ牢獄だ。
神田駅から徒歩15分程度。今の十思公園にその跡が見られる。
食事は朝夕2回、玄米一日5合と汁物に漬物が与えられていた。
衛生環境は悪く、陽当たり悪く窓もなく風通し悪くトイレも牢内にあり。
空調も最悪で、夏はひたすら暑く冬はひたすら寒く、地獄のような場所だったようだ。
悪臭に風呂も月に3~6回で疥癬などの皮膚病に伝染病も広がりやすいが医者はろくな診察をしない。高野長英が入獄したとき、熱心に診察と環境改善を行ったため牢名主に出世したほどである。
身分制度のヒエラルキーがあり、囚人によるせまい檻の中での独特な人間関係も形成される。
牢名主、隠居、二番手などの頂点と取り巻き。役人への賄賂に新人イビリ、恩を売ったり陰で動いたり。まさに「ショーシャンクの空に」で見た囚人社会のように役人の監視下に囚人のある程度の自治が任せられる。
囚人が増え生活環境が苦しくなると、「作造り」と言われる殺人も行われた。規律を乱すもの、金品の差し入れがないもの、元目明しや岡っ引き、いびきがうるさいものを標的にし、死亡したら「病気で死にました」で済ませられ、とくに咎(とが)めがなかった。
牢獄のこれらの展示は、公園に隣接する建物「十思スクエア」の館内にて。
公園に戻り、松陰先生の終焉の地へ。
「身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という辞世の句は有名ですね。
ほかに、「親思う 心にまさる 親心 けふ(今日)の音づれ(自分の死) 何と聞くらん」。
「かくすれば かくなることと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」(こうなると思っていながらやってしまう)も、人間の真理なのかもしれません。
十思スクエアは公衆浴場もあり、夏暑く汗だくで、牢獄にて暑さに苦しむ囚人たちを思いながら、僕もお風呂に入りたくなったが、まだこれから行くところもあるので控えておきます。
市ヶ谷へ。中央線は神田に乗って快速なので市ヶ谷に停車しないので四ツ谷で降り、ここで南北線に乗り換えてもいいのですが外堀沿いに一駅歩きました。
ちょっと話題転換ですが、市ヶ谷の南北線・有楽町線の改札内に「歴史散歩コーナー」が有名なので見に行きました。
外堀通りは歩いていても楽しいし、最近は四ツ谷や市ヶ谷の駅でも歴史の展示がなされ。いっそさらに先にある靖国神社や、江戸城(皇居)方面、後楽園や東京ドーム方面にも行きたくなりますね。
しかし、今日は監獄を巡るのだ!本来の目的とはちがう、本末転倒にならないようにしたい!!
小伝馬町から近代の監獄へ
伝馬町牢獄は明治8年(1875年)に市ヶ谷に移転しました。
ちょっとズルしましたが、これは以前「新宿の怖いスポット」で紹介しました、新宿富久町で撮った市ヶ谷監獄のあとです。
市ヶ谷から気張って歩いたり、新宿線の曙橋からすぐのところにあります。
公園に石碑が建っているだけですが。
1910年に手狭になったため、中野に「豊多摩監獄」がつくられます。
僕は市ヶ谷監獄は上にある以前撮影した写真があるためスルーして、南北線市ヶ谷駅の奥につながっている都営新宿線に乗り、新宿からふたたび中央線に乗り換えて中野を目指します。市ヶ谷はちょっと寄り道でした。
中野に着くと、またまた監獄話から話題転換。
中野サンプラザが実は解体されます。土曜日からお祭りだったようで、中野ブロードウェイや沼袋氷川神社など度々楽しませてくれた中野の町を愛でるために、行ったことないくせに中野サンプラザを撮影し始めます。
監獄一筋!と思わせといて、僕もとんだ浮気者ですね。
中野サンプラザ。サンプラザ中野さん。今は「サンプラザ中野くん」さんっていうYouTuberもやっているらしいですね。
「爆風スランプ」の曲は子供の頃たびたびテレビや「ツヨシしっかりしなさい!」のアニメとかのOPで聞きました。
そしたら、19時にサンプラザ中野くんさんが、ライブやるって話じゃないですか!
中野を愛でるのも目的ですから、こりゃ聞かないわけないじゃないですか!
そんなに音楽を聴かない僕ですが、もともとギターの演奏をYouTubeで聞くのは好きです。それが最近、アニメ「ぼっちざろっく」を心の聖書にしはじめていたため、アニメのギター担当の三井律郎さんの動画とかも見ています。
なので、今日まで知らなかった爆風スランプのギタリスト兼プロデューサーのパッパラー河合さんのギターがとてもエモかったです。
そして、ライブなんて滅多に行かないし、体を揺らして手のピースを振る人が理解できませんでしたが、いや、僕まわりの人よりリズムで体が動いてました。
最初のバラードは、僕の個人的感想ですが、まわりの音にサンプラザ中野さんの声が負けている気がしましたが、「涙2」と「旅人よ」の明るく元気でたくましい声。サンプラザ中野さんの熱唱と懐かしさが心に刺さり、ちょっと泣いてしまいそうで…
しかし、本末転倒になりそうなので、シメの「Runner」まで聞かず、何百人もひしめき合う聴衆のすきまを縫いながら、中野サンプラザを脱出。
豊多摩監獄あとを目指します。
え?
これだけだったようです。
今日の散歩は実はこれで終わり。以下の刑務所話は過去に撮影した写真をもとに話します。
近くのスーパー「ライフ」で、安かった鶏肉団子とセリとエノキ、これで汁物をつくり、セリは一部でサラダにして冷奴といっしょにし、そしてメインのソーメンを買って帰りました。
ソーメンと豆腐とセリサラダで焼酎を飲み過ぎたせいか、楽しみにしていた汁物(青森の八方汁というだし汁で味付けた)は、酔ったうっかりで床にぶちまけてしまいました… ちゃんちゃん♪
戦後の刑務所跡
明治時代に、もう1つの監獄がつくられた。石川島監獄だ。
もとは、江戸幕府の老中・松平定信の寛政の改革にて、江戸に多くいた無宿人の更生施設として石川島に人足寄場という労働施設を「鬼平犯科帳」で有名な長谷川平蔵の進言によりつくられたが、これが明治時代に監獄となった。これが1895年(明治28年)に巣鴨に移転。
巣鴨監獄は、東条英機元首相や、ソ連のスパイで「日中戦争を指導した近衛文麿内閣」のブレーンとして近衛をあやつった尾崎秀実とゾルゲという2人のスパイを死刑にした。
現在の池袋サンシャインのあとである。(池袋は巣鴨村だった)
GHQによる東京裁判。原子爆弾や空襲など、ほんらい戦争で行ってはいけないが世界大戦で常時行われた「一般人の大量虐殺」(ジェノサイドなど)を行ったアメリカが、日本を「人道に対する罪(南京大虐殺とかでっちあげて)」で、いろいろな事後法を駆使して断罪しました。
裁判所は市ヶ谷の陸軍士官学校に置かれ、巣鴨監獄に収監されている東条英機らを裁きました。
東京散歩「墓参り」でも、池袋近く雑司ヶ谷霊園にある、東条英機のお墓をお参りしました。
これも以前ですが、いずれ書く関東記事「国府・国分寺祭り」の取材のため、国分寺と府中を散策したときに、府中刑務所も撮影しました。
1922年に巣鴨監獄は巣鴨刑務所となるが、関東大震災により府中刑務所が作られ巣鴨拘置所へ。
巣鴨拘置所は、のち1971年に現在の「小菅の東京拘置所」に移転、サンシャインになります。
東京拘置所にも行こうと思ったけど、足立区の常磐線綾瀬駅や東武伊勢崎線小菅駅の近く、中野から遠いし。
あと、施設の撮影は禁止だとかどうとか聞いたようなどうなのか。
そして、綾瀬は昭和の終わりと平成の始まりあたりで日本を震撼させた凶悪事件「女子高生コンクリート詰め事件」があり、あの凶悪犯どももいまや釈放されしかも再犯しているとかで、何か怖いオーラを放っていて。
漫画「闇金ウシジマくん」読んでも、僕の仕事の噂話を聞いても、足立区とか怖い… どこもそうなんだろうけど… と行かなかった言い訳です。
一時、副業を増やそうとしてタウンワークを愛読書にしていましたが、「府中刑務所の囚人への家庭教師」ってのがあったなあ。
さて、続編ない可能性がある「東京散歩・監獄めぐり」でした。
罪人や人の業を描こうと思いきや、話があさっての方向のスパイの話が多かったかもしれません。
扱った事件も「女子高生コンクリート詰め事件」ぐらいだなぁ。
以前、犯罪史の記事も書いたけど、もっとここでも書けばよかったかも。
んまあ、「えげつない」ことばかりですが。
ギロチンを発明したフランスの「ムッシュドパリ」ことシャルルサンソンの日本版・山田浅右衛門を描けばよかったかな。
いろいろ後悔ありますが、また別の機会にして、これでアップしちゃえ!
東京散歩。次回は崖線か、川か坂か。はたまたスラム街を巡ってみるか。凶悪事件現場を歩くとか。お墓参りの続編「多磨霊園」かなぁ?
いーかげんにしろ、この変態!って感じでしょうかね。真面目な観光スポットを挙げるのは無理です♪
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