僕にとってFM PORTは友達以上、恋人未満。

新潟県民エフエム放送、またの名をFM PORT。2000年に生まれ、2020年6月をもって停波、閉局したローカルラジオ局だ。

新潟出身、アラサーの僕は、主に中高生の時分にFM PORTをよく聴いていた。中学時代は学校から帰ってから。高校生になってからは携帯ラジオを買って通学時に帰宅時に。携帯ラジオを趣味で買う高校生っていうのはなかなか渋いと思うが、ガジェットの話はまた別の機会にしよう。

よく聴いていた、というか時間帯の問題で必然的に聴く番組はある程度絞られていた。もっとも聴いていたのは16時〜20時の枠で放送されていたBEAT COASTERおよびBEAT COASTER 〜FRIDAY EDITION〜だろう。月曜日から木曜日は島村仁、金曜日は高橋佳奈子というパーソナリティが進行していく。番組内容は比較的オーソドックス(だと僕は思っているが、よく考えたら他の局のことをあまり知らない)で、リスナーから送られてくるメール・ハガキ・FAXを読み、リクエストされた曲を流していくスタイルだ。合間合間に地元企業の情報や、新潟を中心に活動するバンドなんかの情報を伝えてくれる。時にはインディーズバンドや、メジャーデビューしたての新進気鋭のアーティストが出てきてトークと音楽で盛り上げてくれる。そんな番組だ。金曜日のほうは通称「ビーフラ」として親しまれ、4時間の放送枠のうち後半の2時間は公開録音をしていた。毎週である。僕は友達とこの公開録音にたびたび足を運び、カナちゃん先生(高橋佳奈子がそう呼ばれていた)を拝んでいた。月〜木の通常放送のほうでは一度、リスナー投稿のコーナーで電話出演したことがある。Catch the meaningというコーナーで、判別しににくくサンプリングした曲を聴き、誰のなんという曲か当てるというコーナーだ。リスナーは答えを言う前に仁さん(島村仁はそう呼ばれている)と2分か3分か、あるいは5分か、そのくらいの短時間ながら会話をするわけだが、正直なんの話をしたか全然覚えていない。覚えているのは、電話しているところを親に聞かれたくなくて寒空の下(秋も深まった頃だったと思う)自宅前をウロウロしながら電話したことと、担当のお姉さんが繋いでくれて「こういうふうになっているのか」という小学生並みの感想を抱いたこと、答えはmihimaru GTの気分上々↑↑だったということくらいだ。肝心の仁さんと何を話したか覚えていない。いや、嘘だ。若干だが覚えている。恥ずかしい話をした気がする。好きな子がどうこうという話だったはずだ。緊張からどもりながらしていたはずだ。今覚えば、高校生の色恋沙汰などを聞かされる仁さんとリスナーはつまらない思いをしていたことだろう。この場を借りてお詫びしたい。そして僕は10年以上も前のこの小っ恥ずかしい思い出をいい加減に忘れてしまいたい。

もちろん、他の番組だってよく聴いていた。朝はMORNING GATEを聴きながら通学していた。遠藤麻理の「おはようございます!(リスナーが返事をするための空白)」を聴いて英気を養っていたし、土日は予定がなければ1日中聴いていたこともある。平日が休みのときは、立石勇生がパーソナリティをしていたTOWN CROSSINGが聴けるのが嬉しかった。爽やかイケメンボイスなんだこれが。

新潟に住んでいたとき、僕にとってFM PORTは無くてはならない存在で、例えるならば付き合いたての恋人かというくらい、べったり張り付いて聴いていた。

大学進学のために上京し、そのままこっちでフリーターを経て就職した。上京して、なんだかんだ10年以上経ってしまった。

新潟を離れて10と数年。この間、僕はFM PORTから、いやラジオから離れていた。理由は色々とある。上京当時、まだradikoは無かった。そもそも主流の端末がまだギリギリでガラケーだった時代だ。数年経ってスマホが普及しradikoの存在を知ったものの、まだエリアフリーには対応していなかった。じゃあ東京周辺のラジオ局を聴けばいいじゃないか。そう思っていくつか聴いてみたこともある。だが、どれもしっくり来なかった。FM PORT独特の距離感というのだろうか。親しみやすさというのだろうか。そういうものが感じられなかった。やはり、東京は地元じゃないのである。音楽はともかく、東京や横浜の情報を流されても、どこか他人事な気がしてしまっていた。良くも悪くも新潟県民に色濃く流れる地元愛が作用してしまったのだろう。結局ラジオを聴くということを自然としなくなってしまった。

それでもときどき(2年に1度くらいの頻度で)帰省したときには、欠かさずFM PORTを聴いていた。FM PORTを聴くことで、僕は「新潟に帰ってきたんだなあ」と実感していた。建物は変わっても、空気は変わらない新潟に安心していた。帰省のたびに必ず会う友達なんてものはいなくても、帰省のたびに必ず聴くラジオは確かにあった。しかし。勝手に「いつまでもあるもの」だと思い込み、自分は遠く離れて好き勝手なことをしているうちに、この世からいなくなってしまった。

人付き合いの仕方は、きっと人による。接し方は人それぞれだ。僕はどんなに親しい友だちでも、帰省するたびに会うほど近い距離感では接さない。そしてもし、遠距離恋愛で新潟に恋人を置いてきていたとしたら、多分僕は2年に1回と言わず毎月のように帰省していただろう。

そう考えるとFM PORTは僕にとって、友達以上、恋人未満だった。行けば聴く。でも聴きには行かない。この距離感が、僕にとっては自然な接し方で、心地よかったんだと思う。

この接し方が正しかったのかどうかはわからない。そもそも、正しいとか正しくないというものさしで測るものでもないかもしれない。ただ、思うところはある。もっと聴いていたら。もっとメールを送っていたら。そもそも、新潟に住んでいたら。たらればはいくらでも並べられる。でも、僕が選んだのはこの距離感だった。僕の中のFM PORTはそういう存在だった。

話が堂々巡りしてしまうな。そろそろ終わりにしよう。

3月31日に閉局が発表され、そして4月。僕の青春時代を彩ってくれたBEAT COASTERに1通のメールを送った。そして帰宅中にradikoで久しぶりにFM PORTを聴いた。後半の2時間だけしか聴けなかったけど、多分僕のメールは読まれていない。そりゃあそうだろう。内容は支離滅裂だったし、なによりも僕より、もっともっとFM PORTを愛したリスナーたちがたくさんいた。そんな人達が送ったメッセージを読んだほうが、お互いに幸せだ。僕自身もそうだ。番組で読んでもらいたくて送ったわけじゃない。ただ、この思いを吐き出したかっただけだ。それで満足だった。これはどう考えても自己満足で、恋人に注ぐ愛じゃない。僕の気持ちはその程度のものだったと思う。僕はそれを恥とは思わないし、誇りもしない。ただそういう気持ちを抱いていたことが、自然だっただけだ。

気持ちを整理するのは難しいものだ。閉局の発表から半年経ち、実際閉局してから3ヶ月が経った今もなお、うまく言語化できないでいる。ここまで書き綴ってきた文章は、これから破り捨てられることになるラブレターの下書きみたいなものだ。いつかこの気持ちに整理がつき、言語化できるようになったら改めて清書したいと思う。

さて、FM PORTの主だったパーソナリティの方々は、FM新潟やBSNラジオで新たに番組を持っているらしい。喜ばしいことだ。彼らのラジオをまた聴くことができるのだという事実が、僕に安心感を与えてくれる。新潟に帰ることがあれば、また彼らの声を聴きたい。radikoより、当時使っていた携帯ラジオがいいな。裏方のスタッフの方々はどうなったのだろう。今もラジオの仕事に携わっているのだろうか。きっとそうじゃない人もいるのだろう。顔も見たことがない、声も聞いたことがない、名前も知らないスタッフの方々。FM PORTという素晴らしいラジオ局を運営してくださり、本当にありがとうございます。あなた達がいなければ、僕の青春時代はもっと色あせていたに違いない。このもどかしい距離感を生んでくれてありがとう。「もっと愛にあふれた文章じゃねえのかよ!」という意見もあろう。それは申し訳ない。それは他のリスナー達に譲ることにしよう。

FM PORTの顔、というより口として活躍してくれたパーソナリティの方々。それを支えたスタッフの方々。そして同胞たるリスナーの方々。20年関わり続けた人もいるだろう。10年関わった人もいれば、もしかしたら最終日だけ聴いたという人もいるかもしれない。その人生が、少しでもFM PORTと交わった人、すべての人に感謝を。

みんな、おつか。

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