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『良い写真』とは自己と世界の関係の結節点を表現できているからなのか?

カルロ・ロヴェッリ「世界は関係でできている」を読んだ。

そろそろ学ばなければと思っていたが、数学も物理も大の苦手なので敬遠していた量子物理学。

この本は難しい数式などをほとんど使用せずに、量子論を哲学や仏教を交えながら解説してくれている、非常に良い本だ。

量子論とは、非常に簡単にいうと「世界はごく微小な粒子で満ちており、すべてはそのネットワーク=関係でしかない」ということだ。

シュレーディンガーの猫のように、量子物理学では観察するまで対象がどうなっているか理解することはできないとされている。

これは観察者と対象の関係がリンクすることによって、その存在があることがわかるという意味であり、逆にいえばあらゆる関係が一切無いものは存在できないことになる。

我々が意識的に行っていると思っていることも、すべてこの網の目状に広がった関係のネットワークの結節点でしかないと捉えることができる。

これは仏教の空の思想に近く、世界には絶対的な実体はないのであり、そこに我々があると信じているものは単なる解釈でしかないのである。


これは写真にも言えるのではないだろうか?

森山大道のスナップショット、アレ、ブレ、ボケの何が写っているかすらよくわからない一枚の白黒写真。

中平卓馬の植物図鑑のような撮影者の実体を排した客観的な写真、スティーブン・ショアやアレック・ソスのアメリカの田舎の風景の中にある数学的な美しさ・・・

この全ては単なる景色を切り取ったものでしかないが、なぜ我々は数多ある写真の中からでもふと目を留めてしまうのであろうか?

僕が思うに、彼らの撮る写真は関係のネットワークの結節点を完璧に再現しているからだと思う。

普遍的な共感とは、すなわち関係のネットワークの中に生きる実体なき我々に繋がるのだ。

「実体のない関係のネットワークの結節点の完璧な再現」とは矛盾しているかもしれないが、これは我々のもつ意識とされるものの普遍的な世界の見え方なのだ。


思考のなかで起きていることと、思考の「外側」で起きていること、つまり考えが意味するものの間には密接な関係がある。

関係のネットワークの結節点とはまさにこの思考の内側と外側が擦れ合う瞬間、意識と無意識の一番薄いところを通る光に違いない。

だからこそハッとする、懐かしさを感じることもあれば、心臓が激しく打ち鳴ることまである。

良い写真とは意識と無意識の結節点であり、しかもそれすら宇宙的な広大さを持つ関係のネットワークの中での結節点に過ぎない、このメタ認知のアナログな閾をチカっとさせるものなのだ。

これは黄金比率の美しさを数学的に説明することと似ている。

言語により縛られた意識偏重の現代社会において、関係のネットワークの中の刹那的な感情という火は我々にそのことを教えてくれるのだろう。

そんな写真を撮り続けたいものである。


良い写真とカメラと時代性。

サポートいただきましたら、すべてフィルム購入と現像代に使わせていただきます。POTRA高いよね・・・