【短編】「九九」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 036
ぼくはちいさな、それは、幼稚園に入る前の三歳くらいのころ、知らない人と話すのが苦手で、たとえば家に来た面識のないお客さんから話しかけられると、計算をしているふりをする癖を持っていた。
いちたすいちは、に、で、にたすさんが、ご、だから、ごひくいちは、よん、とぶつぶつ言って、じぶんはいま計算で忙しいので、あなたと話すことはできません、という口実をつくり、目の前の人との会話を回避することに必死になるのだった。
大人たちは苦笑いをして、哀れみの目線をぼくに送り、まあ、小さいからしょうがないよ、とか、はずかしいもんね、と形だけの同情をつくってくれた。
いつも、どうしてあなたはちゃんと挨拶ができないのかね、と母に怒られた。
ぼくも、どうしてぼくはあいさつができないのか、分からなかった。
どうしても、固まってしまい、計算をはじめてしまうのだった。
足立サヤコに出会ったのは、小学校の入学式だった。式を終え、うっすらと木の匂いのする教室に緊張しつつ、太ももにぴったりとくっ付く合板の椅子に慣れないまま、ぼくは黙って座っていた。足立サヤコは斜め前の席に座っていた。色白の頬の表面にうっすらと伸びた柔らかそうな産毛に春の陽光が滲んでいた。
入学式の帰り、同じクラスになった足立とぼくの母親同士の会話の中で、お互いが近所に住んでいることが判明し、一緒に帰ることになった。
ぼくは、笑顔でこんにちは、と話しかけられた足立の母親に対して、こんにちは、という一言が言えず、また計算を始めてしまった。
ため息まじりで、ちゃんと挨拶しなさい、この子挨拶ができないの、ごめんなさい、と母は謝った。
さんたすよんは、なな、ななひくろくは、いち、いちたすいちは、に、にたすには、よん、よんたすには、ろく。
ろくに、じゅうに。
と、足立サヤコが言った。
ぼくは驚いてしまい、計算をやめた。
足立は笑いながら、くくだよ、と、子どもながらの得意げな笑みを母親の影で浮かべた。
くくはね、かけざんだよ。
と足立は小さな声で言う。
ぼくは、心が軽くなり、笑って、なにそれ?と足立に聞いた。
そのあとの会話は覚えていない。
僕が覚えているのは、その日が初めてぼくの扉が開いた日だったこと。扉を開けたくれたのは足立サヤコという同じ歳の少女だったことだけだ。
ぼくは子どもで、足立は大人だった。ほかの大人たちの誰よりも。
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