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【短編】「お忘れもの」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 035

 晴れ渡った空の下、田舎の空港にタクシーが到着した。

 後部座席に座った小太りの男はしばし遠くに霞む山のシルエットを目でなぞっていたが、目的地に着いたことに気づくと、胸のポケットから薄い財布を取り出した。白髪の運転手がメーターから吐き出されたレシートをビリッと破り取り、慣れた口調で男に話しかける。

「お忘れ物はございませんか?」

「え?」

「身の回りのお手荷物、近ごろはスマートフォンの忘れ物が増えています」

「なんでしょう、なにか大切なものを忘れているような気がするのですが思い出せません」

「では思い出すまで、待ちましょう」

「申し訳ない。お時間大丈夫ですか?」

「この辺でタクシーに乗る人は少ないですから、大丈夫ですよ。いま走って来てご覧のように、住んでいる人自体が少ないのです。空港しかありませんからね」

「おおらかで、美しい町ですね。でもなんで私はここに来たのだろう」

「ゆっくり、思い出してください。飛行機の時間は大丈夫ですか?」

 男は財布に挟まったチケットを取り出した。搭乗時間までには、かなりの余裕があった。

 「出発時間は大丈夫みたいです。でも何を忘れたのかな。このタクシーに乗った時には、まだ忘れていなかった気がするのですが。運転手さん、わたし、どこでこのタクシーに乗りました?」

 「どこで、といいますと。」

 「乗り場です。ホテルでしょうか。それとも駅、とか」

 「それでいいますと、こちらの空港にお越しの方はたいていそうですが、お客様のお乗りになった場所も、川になります。川の駅というのでしょうかね。この町でいちばん栄えている場所です」

 「川。美しい川だった気がします。なんという川でしょうか」

 「三途川です。三途の川、と呼ばれる方が多いですかね」

 男は、呟いた。

 「思い出しました。そうだ。私は死んだんだった。ああ、思い出しました。トランク、開けていただいていいですか?」

 「お客さん、そりゃ大事なこと、忘れてましたね」

 笑いながら運転手はトランクを開け、男はスーツケースを取り出した。

 「この小さなスーツケース一個。これが私の人生のすべての思い出です。危うく忘れるところでした。ありがとうございます。運転手さんもお元気で」
 
 そう言って男は、身体とは対照的な小さなスーツケースをゴロゴロと引き、田舎の小さな冥界空港の出国カウンターへと向かっていった。




(referenced by)

Simplicity of the world, Complexity of the life. 022

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