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【短編】「包丁」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 025

 男は女と寝ていた。女の部屋で寝ていた。と書いてもいい。

 男は大学生だった。女は小さな不動産会社で働いていた。

 女は一人暮らしが心地よかった。

 男は女の部屋に転がり込むことの心地よさを覚えた。

 男は女の部屋の天井を見ていた。薄いベージュ色の壁紙だった。壁紙の色から察すると深夜であることは間違いなかった。

 女の姿は男の隣になかった。

 女はキッチンで包丁を握っていた。玉葱を切っていた。深夜の2時にぴったりの作業とはいえなかったが、6時の出勤を考えると弁当はその時間につくっておいた方が楽だと考えていた。

 男は女の部屋のベッドの中で玉ねぎが切られる音を聞いていた。男は女との別れ方を考えていた。

 女は使い終わった包丁を食器棚に戻した。一人暮らしの食器棚にはもうひとつの小さな包丁が挟まっていた。使ったことのない包丁だった。母親はこの小さな包丁を果物ナイフと呼んでいた気がするが忘れた。包丁は大小二本セットで売っていた。6年前に商店街のスーパーマーケットで買った。

 女は小さな包丁を手に取ってみた。毎日使っている大きな包丁とは手に馴染む感覚が違った。柄まで同じ金属でできたものだった。しばらく刃を宙に泳がしてみた。キッチンの60Wの照明にキラキラと輝いた。振り返ると男がいた。

 女はこれから男が語ろうとすることに察しがついていた。

 最低な男なのに悪くない顔だと思ってしまう自分を諦めていた。

 60Wの照らす刃をぼんやりと眺めながら女はどうして包丁は大小2つ並んで家庭の食器棚に挟まっているのか、分かった気がした。

 一つは切るためにあり、一つは刺すためにあるのだ。

 女はその日、初めて小さな包丁を使った。


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