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【短編】「アクアリウム」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 005

 ユウナはアラタのことが好きだった。

 ふたりはおおよその中学生がやるように、水族館へきていた。

 一番大きな水槽は、地方都市にしてはまずまず多くの大型魚たちが回遊していて、レモンザメやマンボウなどがゆったりと泳いでいた。

 もう25分ほど、ふたりは水槽の前のベンチに腰掛けていたが、一言も会話を交わさなかった。

 他のカップルや家族たちが、笑ったりじゃれあったり、水族館のルールブックに定められている条項を守る中、ふたりはまるで水槽の中の魚たちのように言葉を持たなかった。あるいは、ふたりは魚だったのかもしれない。

 ふたりの前を横切るレモンザメも、とっくの昔に彼らの前を横切ることに飽きていたと思う。アラタが呟いた。

 「ねえ、誰かに食べられることを想像したこと、ある?」

 ユウナは、まるで首を寝違えたことがあるか、と問われたかのように答えた。

 「あるよ」

 アラタは続けた。

 「部位ごとの肉を丁寧にひとつひとつ仕込んで、それぞれの肉質にあった下味をつけて、じっくりと時間をかけて最高の状態で調理をしてもらう」

 「うん。」

 「そして、食べてもらう。できればその時だけは食事を共にする大切な人との会話すら忘れてもらって、味覚に集中してもらえるように。夢中になってもらえるように」

 わずかに肩だけ触れているアラタの静かな振動を感じながら、ユウナは一匹だけで孤高に泳ぐハリセンボンから視線を外さずに呟いた。

 「ちゃんと心からいただきます、って、言ってもらって、幸せを味わってもらったら、命への尊敬をこめて、ごちそうさまでした、って言ってもらう」

 「うん」

 それだけを呟き、ふたりはまた言葉を失った。まるで水槽の中の魚たちのように。あるいは、ふたりは、魚だったのかもしれない。

 ユウナはアラタのことが好きだ、と思った。

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