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【短編】「AM9:60」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 061

 運送会社のトラックがけたたましく通り過ぎてゆく。平日の午前中。住み慣れた住宅街はドタバタしている。上京して12年、大学を卒業して8年が経つわけだから様変わりして当然なのだが、それにしても近ごろはみなネットでモノを買い過ぎではないか。路上駐車されたトラックがただでさえ狭い道を半分塞いでいる。イノベーティブなイーコマースとやらの正体は半分が人力である。穫れた魚を日本橋の市場に揚げる江戸時代の風景とそんなに変わらないのではないか。そんなことを考えながら固いベンチにもたれ、トールサイズのコーヒーを啜る。小さなモノはなるべくまとめ買いするべきであり、それが最低限のネットショッピングのマナーである。云々。運送会社のお兄さんは助かり、資源の節約にもなる。経済的にもいいことがあるはずである。云々。まあ、よく知らないのだが。そもそもこの考え方自体が妻の受け売りである。

 元妻、と呼べばいいのだろうか。今朝まで妻だった女性だ。いや、現時点でも妻といえば妻なのだが、自分の心持ちだけだ。というか主張次第か。云々。

 今朝のことである。朝寝坊が得意な僕は7時にセットしていた携帯電話のアラームが鳴ってもなかなか起きることができないのでベッドでひとりモゾモゾしていた。すでに妻と娘はしっかり起きていてバターの混じった玉子焼きの芳醇な香りがベッドルームまで届いていた。僕は自分のことはよく分かっているつもりなので時間通りに出社しなければならない勤勉な会社には就職せず、というか、できるわけもなく、美大の先輩が開業したデザイン事務所に勤めている。ゆえにどんなに早くても8時に起きられれば優等生である。だが、8時に目覚まし時計をセットしてはいけない。8時に目覚ましが鳴って、8時に起きることほど困難なことはない。あえて1時間前の7時にセットし、あと1時間も寝られる、という状態で二度寝をするのが朝寝坊の流儀だ。

 今朝もアラームは律儀に仕事をこなし、7時ちょうどに脳みそを刺激してきたので、僕も負けずに寝ぼけ眼でアラームのスイッチを切った。さて二度寝を起きる時間をセットする。携帯電話のディスプレイには「7:60」と表示されている。変わった時間表示だな、と思いながら「7:60」にセットしてベッドに潜り込む。

 二度目のアラームが鳴った。僕は心地よい二度寝に満足しやさしくアラームを消した。ゆっくりと3回伸びをしてベッドから這い出し、一階のリビングへ下りる。すでに二人は朝ご飯を食べ終え、身支度を整え終わっている。さすがコンサルティング会社に勤める妻と私立小学校に通う娘である。優秀だ。あくびをしながら頭を掻き、階段を下りる。二人はダイニングテーブルに座り、妻はコーヒーを、娘は紅茶を飲みながら三人で談笑していた。誰と?

 そこにいたのは僕だった。コーヒーカップを持った僕が身支度を終えて妻と娘と来週に行く予定の北海道の話をしている。三人は僕に気づくと振り返り、目を丸くして固まってしまった。
 
 その後、いくつかの常識的な確認を冷静に行った僕は、もうひとりの僕から服を借り、いや、貰い、着替え、自宅を退出した。いや、借りたというか、そもそも僕の服なのだが。

 そんなわけで僕はこちらの世界で一人、はみ出してしまった。あまり大胆に寝坊するものではない。家族に会えなくなるのは寂しいが、まあ、きっとあっちの「僕」は大丈夫だろう。大丈夫かどうかは分からないが大丈夫と思うことにする。心持ち次第だ。なんせ僕なのだから。

 運送会社のトラックがドタバタと発進してゆく。時間だけは大量に余っている。平日の空気が小刻みに振動する。

 公園の時計は「9:60」を指そうとしている。

 さて、今日は何をしようか。



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