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【短編】「喫煙者たち」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 007

 あれは私が卒業論文を書いている頃であるから、60年ほど前になる。21世紀になったばかりの頃だ。

 東京の大学に通う学生だった私は、広尾の公立図書館で、ある芸術家に関する作家論を書いていた。まだデータがオフラインで保存されている時代だった。当時ノートパソコンと呼ばれていた電子端末は普及していたものの、専門的な情報の参照は当時「本」と呼ばれていた紙のメディアに依存せざるをえなかった。

 あの時代はまだ喫煙という行為が許されていたが、愛煙家に対する風当たりが強さを増し始めていた時代で、喫煙者の隔離がいたるところで行われていた。「喫煙所」という物理的にセグメントされたおよそ4m四方のガラスの空間が私たちの憩いの場だった。

 四回生だった私は大学には行かず、毎日、その図書館で早朝から閉館時間まで執筆に勤しんでいたので、喫煙所に行くと、きまって顔を合わせる面子が何人かいた。

 ハヤシさんもそのうちの一人だった。歳は70歳といったところだろうか。不思議な男性だった。

 ハヤシさんはいつも、「私は本なんか読まないんです」と言っていた。実際、彼の醸し出す雰囲気からは文化的な香りは感じなかった。では、「どうして図書館へ?」と聞くと、ハヤシさんは「本に囲まれた空間の雰囲気が好きなんです」と答えた。「いや、正直言います。本に囲まれた空間の喫煙所で煙草を吸うのが好きなんです」。そんなに面白い冗談には思えなかったが、私は、社交辞令的につくったハニカミ笑いで、答えた。「分かります。一緒に吸いましょう。となり、いいですか?」

 不思議なことがあった。ある日、喫煙所のプラスチックのベンチに腰を下ろしたところで私は胸ポケットの煙草が空になっていることに気づいた。顔を上げると、向かいにはハヤシさんがプカプカといつものように煙草の煙の先を見つめていて、目が合った私に会釈した。渡りに船、と思い、煙草を一本もらえないか、とお願いすると、ハヤシさんはとつぜん険しい表情になり、視線を逸らせた。私は、「最後の一本でしたか?でしたら結構です」と、願いを引き下げた。だが、ハヤシさんの煙草はまだ何本も入っていた。珍しいデザインのパッケージで、そのパッケージをわたしは見たことがなかった。希少な煙草なのだろう。申し訳なく思った私は喫煙所を出ようとしたが、ハヤシさんは私を引き止め、そのうちの一本をくれた。「ぜったいに誰にも言わないでくださいね」。額にはうっすらと汗が滲んでいた。

 その煙草は味わったことのない味で、「この煙草、どこの煙草ですか?」と聞いたが、ハヤシさんは「私も貰ったモノなので知らないのです」と言ったきり、二人の間から会話は消えた。

 いくつかの季節が流れ、私は論文を提出し、その図書館へ訪れることがなくなると、ハヤシさんに会うこともなくなった。

 どうして今になって、そんな60年も昔の話を思い出したかといえば、近ごろ可決された法案の内容によるものだった。ニュースはこんな見出しで可決を伝えた。

 「30年ぶり。喫煙の自由が認められる」

 私たちの世代にとっては、大ニュースだった。30年前に現行の喫煙禁止法が可決されて以来、煙などの副流煙を発生させる喫煙は違法になっていた。以来、喫煙は過去の大麻のように取り締まられ、忘れた頃に有名人の喫煙による逮捕のニュースが流れていた。

 ではなぜ、一転し、喫煙が認められたのか。契機は5年前に施行された時間移動航行法の緩和によるものだった。これまで特殊な免許を持たない一般人の時間移動に関しては、厳格な規制がかけられていた。だが、実験的に物質の移動や過去の人物との接触記録などを考査したところ、我々の暮らす世界への影響は皆無に等しいことが認められたのである。これはパラレルワールド理論が経験則的にも証明された結果だった。

 これにより、過去への時間移動に伴い許可された私物の携帯が認められ、その中に、煙草が含まれたのである。

 つまり、今の時代での喫煙は罰せられるが、航行先の時代が合法である場合、喫煙は許可される。「時間」が喫煙者を隔離することになったのだ。

 もう僅かばかりの余生を持つ私にとって、喫煙の許可は悲願であった。私は煙草の携行を含む時間航行許可申請を東京都に提出し、4ヶ月待った後、ついに今日、許可がおりた。

 東京都の時間移動管理課の中年女性は私に微笑みながら、受付の窓越しに「どうぞ楽しんで」と、国から認可された煙草を手渡した。

 それは、あのとき、ハヤシさんが吸っていた煙草だった。

 私の鼓動は高鳴った。そして、私がこれから向かう時間航行先のあの場所に、同じ煙草を持った彼がいることを確信した。久しぶりにガラスで隔離された「喫煙所」で会ったら、一本を彼に返して、こう言おう。

「お久しぶりです。一緒に、吸いましょう。となり、いいですか?」

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