【短編】「坂」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 003
また道に迷ってしまった。
こういうときは文明の力に頼るしかないと、スマートフォンの地図を立ち上げたが、GPSが反応しない。
いつもなら青い光源が僕のいる場所を知らせてくれるのだが。
東京全体までズームバックしたが、光はどこにも見当たらない。
19時から坂の上ホテルでピアノを弾かなければならなかった。あと1時間弱しかない。
週末のピアノ演奏サービスが僕の収入源なので、遅刻はしたくなかった。支配人はいい人だが、いい人なので迷惑をかけるのは忍びない。
人に道を聞こうと思って周りを見たが、誰もいない。
この辺りは細い急な坂道が入り組んでいて、人が通る気配はない。なんとか大通りまでは出たい。だが、上っているのか下っているのか、今の自分にはそれすら分からない。山で遭難すると、そんな感覚になるという話を聞いたことはあるが、ここは東京都千代田区だ。
己の方向音痴を恨み、当てずっぽうに歩を進めた。
細い坂の上からか下からか分からないが、向かい側から女性が歩いてきた。助かった、と思い、声をかけた。
「あの、すみません。坂の上ホテルはどちらでしょうか」
女性は、すこし驚いた様子で答えた。
「私も坂の上ホテルを探していて」
よかった。とりあえず一緒に探しましょう、と、二人で坂を歩くことにした。
あれからどれくらいの時間が流れたのかは分からない。
19時のピアノ演奏に間に合うだろうか。支配人には迷惑をかけたくない。
僕たちはどこにいるのだろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?