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【短編】「林檎」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 037

 デカルトは自身の考える渦動説に限界を感じていた。

 彼は天体の運動力学は空間を満たすエーテルの渦を介して作用していると考えていたが、渦動説と呼んだその論を詰めるにつれ、理論の限界が見えていた。

 そんな折、ニュートンという男が新たな学説の完成に近づいているという噂が耳に届いた。

 デカルトはニュートンの若き才能が気に食わなかった。そこで森の魔女に相談することにした。

 デカルトが魔女の家を訪ねると彼女は忙しそうに鍋に向かい蜥蜴の尻尾やら蚯蚓の干物やらを放り込みぐつぐつと何かを煮込んでいた。

 年代物の赤ワインのような、黴臭いブルーチーズのような、それでいてほのかに甘酸っぱいような、嗅いだことのない匂いがした。それはどうやら林檎のようだった。

 魔女はデカルトが家の中に入ったことにも気づかないくらい鍋をかき回すことに必死になっていた。デカルトは陰鬱な森の逆光を浴びる彼女の華奢な後ろ姿に声をかけた。

 「魔女さん、忙しいところ申し訳ないが、古い付き合いだ、私の頼みを聞いてほしい」

 「誰だい。びっくりしたね。なんだい、デカルトじゃないか」

 「忙しそうだね。ふつう老後ってのは暇なもんだろう」

 「世界一美しい私の座を脅かす若い小娘がいてね」

 「え?ああ、世界一、美しい」

 「なにか?」

 「いや、うん、それで」
 
 「この美味しい林檎を食べさせてやらないと、と考えていたのさ」

 「それはそれは。でもそのつやつやの赤い実は完全有機栽培による糖度の高いプレミアム商品というわけではなさそうだね」

 「ああ、紀伊国屋には卸せないね」

 「だろうね」

 「さあ、完成だ。小人たちのいない間に届けないと」

 「それで。頼みがあるんだが、その危ない果実を私に譲ってもらえないかな?」 

 「あんた人の話を聞いてなかったのかね。それとも自殺志願者向け青果店でも始めようってのかい」

 「いや、その、そんな小娘に執着しなくても、あんたは十分綺麗だと思うよ」

 「え」

 「そんな醜い嫉妬心で、あなたのような美女が魔女になる必要はないさ」

 「あら、そんな」
 
 「あんたは、どちらかというと美魔女さ。だから、そんな悪戯な林檎は私にくれないか」

 「美魔女。よく言われるの。そう、そうよね、よく考えたら、私の方が美しいならこんな毒林檎で前科をつくる必要もないかしらね。あ、言っちゃった。美魔女、美魔女ね。やだ、どうしよう、こんな紙袋しかないけど、いいかしら?」

 そう言って魔女はデカルトに林檎を渡し美顔器を手に奥の部屋へと消えた。

 デカルトはニュートンが庭の林檎の木の下で思索にふけることを知っていた。

 彼は魔女から貰った特別な林檎の入った紙袋を提げニュートンの邸宅に向かうと庭に忍び込み林檎の木の上で一夜を明かした。

 明くる朝、ニュートンは噂通り散歩がてら庭のベンチに座ると、じっと考え事を始めた。

 デカルトは、今だ、と、手にした林檎を自然に落とした。

 真っ赤な林檎は垂直に地面に向かって落下しニュートンの足もとに転がった。林檎に気づいたニュートンはその赤く禍々しい球体を拾い上げ、じっと見つめた。

 デカルトは若き科学者が美しい林檎を齧る様子を木の上から想像すると罪の意識に苛まれた。もしかすると私はこの世界の進化にとってなにか取り返しのつかない大きなことをしてしまったかもしれない。

 だが仕方のないことだ。人間の嫉妬心は真実への探究心よりも強いのだ。

 ニュートンはしばらくその妖艶に照り輝く果実を見つめていたが、突然はっと目を見開き林檎を放り投げ書斎に戻っていってしまった。

 デカルトは呆然と慌てて書斎に向かっていくニュートンを木の上から見送った。

 ニュートンが万有引力を発表したのは、その直後だった。

 こうして、デカルトの渦動説は、万有引力という歴史的発見によって科学史から葬り去られたのだった。

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