見出し画像

【短編】「ナビ」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 048

 カーナビが壊れてしまった。

 6年前に買った中古車に付いてきた古いモデルだ。当時、新入社員だった僕は初めてもらったボーナスでクルマを買うことにした。「レンタルでいいじゃない」「維持費がバカにならない」と反対意見を一通りもらった。でもクルマがあることで、仕事で嫌なことがあった日の夜中には海まで走り、誰もいない海岸の夜風に当たることができたし、休日に高原の緑に囲まれて耽る読書は僕の大切な時間になった。

 なによりサトミと過ごした5年間を支えてくれたクルマだった。二人でいろいろな場所へ行った。関東近郊でクルマで行けるような行楽地はだいたい行ったといってもいい。避暑地、遊園地、美術館や博物館、ビーチ、新しくできた商業施設、行列のできるラーメン店やスイーツのお店、神社やお寺、牧場、そして彼女の実家。そこに至る道すべてを、このクルマが走った。

 インフルエンザとお別れはとつぜんにやってくるものだ。この冬、僕は39℃の熱にうなされ会社を一週間休むと同時に、サトミは、ほかに気になる男ができた、というまるで人類の教科書に書いてある慣用句を読むかのように、僕の前から姿を消した。彼女は泣いていたが、僕は涙が出なかった。きっと高熱で水分が足りなかったのだろう。

 クルマを売ることにした。

 思い出を売りたい、といったセンチメンタルなものじゃない。サトミと別れた一ヶ月後、僕はシンガポールに転勤することになったのだ。

 明日の朝、ディーラーがクルマを引き取りにくる予定だった。僕は最後のドライブになる得意先からの帰路を走っていた。この日の得意先は都外の工務店だったので、ナビにしたがって家に向かっていた。

 「300メートル先、左折です」

 ナビの女性が、言った。言われた通りに曲がる。

 「400メートル先、左折です」

 その通りに曲がる。

 「600メートル先、左折です」

 「ねえ、このまま曲がっていたら、一生、家には着かないじゃない」

 僕は、少し笑って、車内でひとり呟いた。突っ込んだ、といってもいい。

 「300メートル先、左折です」

 仕方ない、カーナビのスイッチを切ろうとした、その時だった。

 「運転、お疲れさまでした」

 カーナビが運転を終えた時に発するメッセージが流れた。

 「お疲れ様。キミもありがとう。感謝してるよ、この6年間に」
 
 僕は、本当に思っていたことを、思っていた通りに言葉にした。

 「こちらこそ、ありがとうございました。もうすこし、あなたをナビゲーションしてあげたかった」

 と、ナビが言った。

 「そんなことないよ。人生は何があるか分からない。君は君の仕事を完璧にこなしたくれたし、僕は君のナビでそれなりに素敵な6年を送ることができた」

 ナビは言った。

 「さようなら」

 僕は言った。

 「ありがとう」

 次の日の朝、ディーラーがクルマを引き取りにきた。僕はエンジンをかけたが「おはようございます、今日も一日、安全運転で行きましょう」といういつもの明るいナビの声は聞こえなかった。

 「あれ、このナビ壊れてますね。」

 と、ディーラーは言った。

 「いや、そんなことはないと思いますよ。彼女には彼女の別れ方があるんだと思います」

 と、僕は言った。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?