見出し画像

【短編】「羽化」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 031

 ある日、教室の片隅に大きな蛹が出現した。

 片隅といっても天井の角や柱の上ではなく、大きなといっても拳大ほどの大きさではない。

 鏑木聡子が机に突っ伏し、蛹になった状態で見つかったのだ。

 立冬を越えた空気の澄んだ十二月のある日、聡子の帰宅が遅いことを心配した両親が高校と警察に連絡した一時間後、飴色の紡錘形をした蛹を担任の小川が発見した。蛹の全長が聡子の身長と完全に一致していたことから殻の表面を警察がDNA鑑定したところ、それが聡子本人であることが確認された。

 小川と校長は動揺する聡子の両親に、子どもの変態は極めて稀なことであり、我々も学校創立120年の歴史の中で目の当たりにするのはおそらく初めてのことで困惑していますが、ここは本人の意思を尊重し温かく見守ってあげましょうと提案した。母親は、受験はどうなるのでしょうか、今まで積み上げてきた努力がやっと結果に現れ始めていた時期だったのに二月の本番には間に合うのでしょうか、と顔面を蒼白にして震えていた。小川はこの時期に蛹化したアゲハチョウは越冬をし春に羽化すると理科では教えています、と答えた。母親は俯いたまま、そんなこと聞いていません、と呟いた。父親は、健康状態に問題はないのでしょうか、と聞いたが、校長は、医師たちの診察と分析によれば生命活動に問題はなく、すくすく成長している、と報告を受けています、と答えた。

 私立黎明大学付属高校は県下有数の進学校だった。鏑木聡子は成績、品行、ともに申し分なく、交友関係にも問題は見られなかった、と警察の取り調べで小川は答え、両親にも伝えた。

 刺激を与えないように机を最後列の角に移され、冬用ストーブを囲う柵によって簡易的に隔離された聡子の蛹を見るたびに、渡瀬修司は聡子が蛹になって発見された前日のことを思い出す。

 放課後、市立図書館の決まった席で受験勉強に取り組んでから帰宅することを日課にしていた修司は、いつも使っている席が調べ物をしている老人に使われていたので普段は使わない二階の席に移動したところ、ヘッドフォンを耳に付け一人で机に向かっている同じクラスの聡子を目にした。

 聡子はノートパソコンに向かって真剣な表情で何かを書いていた。脇にはノートと筆記用具が散乱していたが、ノートパソコンのキーボードを流れるように打つリズムは、それが受験勉強の科目をこなしていることではないことを雄弁に語っていた。

「よ」

 修司は聡子の横に座った。だがヘッドフォンをしていてまったく気づく様子がなかったので軽く手を振ると、聡子は顔を上げヘッドフォンをはずし、修司の存在に気づくと、あ、どうも、とそっけなく呟き、さっとノートパソコンを閉じた。

「何書いてたの?」

「くだらないこと」

「そうか」

 修司はとくに仲のいいわけでもないこの女子に声をかけた直後に、とくに何も話す話題がないことに気づき、勢いで話しかけてしまった自分に軽い後悔を覚えながら当たり障りのないことを聞いた。

「志望校、決めた?」

「まだ」

「何書いてたの?」

「いいじゃん、なんでも」

 修司と聡子の会話は続かなかった。お互いに頑張ろうな、という社交辞令を残して翌日から一階のいつもの席に移動した修司がふたたび聡子に会うことはなかった。

 蛹は教室の異物としての存在から、掃除棚と同じくらいの静物としてそこに馴染み、聡子のことを話題にする者はいなくなった。だが修司は時折、あのとき聡子が考えていたことを想像することがある。聡子は何を書き、何になりたかったのだろう。だが、そのエピソードを誰かに伝えることもなかったし、誰かと思索することもなかった。いいじゃん、なんでも。それが聡子と自分の密約のように思われた。同じ寂れた図書館を使うもの同士の目に見えない糸だった。

 修司は、もう聡子はきっとこの教室へは帰ってこないだろうと思った。

 春になり、卒業式も近づいた頃、蛹がかえった。朝一番に登校した日直の岡野という女子生徒が発見した。蛹の背中は、ぱっくりと割れ、机に残されていたが、そこに聡子の姿はなかった。

 修司が登校すると、野次馬のたかるその教室では、ひとつだけ開いた窓から吹き込んだ春風が純白のカーテンを揺らし、机の周りには美しい鱗粉がきらきらと輝いていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?