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【短編】「足音」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 014

 朝、妻が子どもを保育園に送ってくると言って出て行った。

 僕は二人が玄関で靴を履き、いってきまーす、という平和の象徴のような声を聞きながらベッドに潜り込んだ。昨晩は夜勤。帰宅したのは5時だ。午前中の半休を眠りに充てる予定だった。

 すぐにまどろみが訪れ、眠りについた。浅い睡眠。夢は見なかったと思う。

 妻が玄関のドアを開ける音がした。ハイヒールの音が玄関に鳴り響く。

 おかえり。僕は声には出さないが、心の中で彼女を迎えた。脱いだハイヒールを玄関に置くコンコン、という固い音が遠くで響く。

 ハイヒール?子どもを保育園に送るのに?

 妻が寝室のドアを開けた。

 「忘れ物、しちゃった」

 入ってきたのは、見たことのない若い女だった。

 若い女は、パジャマ姿で寝ている僕には気にも留めず、クローゼットのハンドバックからスマートフォンを取り出した。

 「昨日のバッグに入れたままだったの」

 タイトなスカートにスーツ姿のその女は、僕を一瞥すると慌ただしく寝室から出て行った。

 「今日、すこし遅くなると思うから。ごめんなさい、夕飯食べててね」

 遠くでハイヒールを履く音がする。カツ、カツ。ドアを開けて女は出て行った。

 その間、僕はあっけにとられながら、その女をベッドの中から見送ることしかできなかった。

 今の女は誰だったのだろう。

 僕はベッドから起き上がり玄関への廊下を歩く。

 嫌な予感がした。

 僕が歩いている廊下は、僕の知っている廊下ではなかった。家賃12万円で借りているそのマンションは、僕の知らないマンションになっていた。

 いつも、そこにあるはずのネコの置物は玄関にはなく、代わりに外国製のフレグランスが置いてあり、壁にかかっていた信用金庫からもらったカレンダーはマレーヴィチのポスターになっている。

 リビングも、僕の知っているリビングではなかった。すべての家具や電化製品が違う。

 ここは、ここであって、ここではない場所になっていた。

 娘は、どこにいったのだろう。

 胸騒ぎがする。子どものいる家の気配ではない。

 いったいこの僕の人生は、誰の人生なのだろうか。汗がふきでてきた。心拍が高まる。

 夢に違いない。早く起きなければ。僕は焦った。だが、起き方が分からない。

 僕はいったい誰なんだ。鏡を探す。

 この家には、鏡が無かった。

 僕は誰なんだ。

 僕の知っている、4歳の娘を保育園に送る人生はどこへいった?あるいは、あれは夢だったのだろうか。

 ここであって、ここではない場所で、僕はベッドに倒れ、目を閉じた。

 そういえば、僕は寝ていたんじゃなかったっけ?この夢が夢だとしたら、何回目の夢なのだろう。僕は起きるべきなのだろうか。あるいは、眠りにつくべきなのか。

 目を閉じても睡魔はやってこなかった。そこにあるのは、ただただ無限に続く時間だけだった。

 ガチャ。ふたたび、玄関の開く音がした。先ほどとはまた違う、聞いたことのない固い足音が、コン、コン、と玄関に鳴り響いた。


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