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【短編】「ウナギ」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 038

 平日の昼間に見たことのない番号から電話がかかってきたので不動産の勧誘か何かだろうと思い、断りの文句を適当に考えながら出てみたところ意外な相手からの着信だった。

 「もしもし、うなぎのよろゐ軒と申します。ご予約の確認のお電話を差し上げました」

 電話口の女性店員は丁寧な口調で続ける。

 「明日のご予約ですが、島本様、十九時から二名様でのご予約にご変更はありませんでしょうか」

 得意先での打ち合わせの帰り道、地下鉄の駅の階段を上がり外に出たところで僕は慌てて手帳を取り出し明日の予定を確かめた。だが、そこに会食の予定は入っていなかった。念のため手帳のページをめくり滅多に開かない年間予定のページを見ると11月16日の欄に小さな文字で「19時よろゐ軒」と書かれているのを見つけ僕の心臓は高鳴った。

 それはおよそ一年前に予約を取った鰻の店だった。よろゐ軒は鰻好きの間で知らない者はいないほどの有名店だったが、その予約を取るのは至難の業と言われていた。奇跡的に電話が繋がり予約が取れたのだが、あまりに昔のことだったのでその件を忘れていたのだった。

 翌日の夜の予定は何も入っていなかった。

 「はい。大丈夫です。楽しみにしています。よろしくお願いします」

 と答えて電話を切った。

 そして、あることに気づき悄然とした。

 それは小島紗季と二人で行くはずの予約だった。

 紗季と僕は一緒に暮らしていた。

 日本一おいしい鰻が食べたい、と、何かの拍子に呟いた紗季の言葉に反応して僕がその場で「日本一の鰻」と検索してヒットし電話をかけたのが「よろゐ軒」だった。もちろん、予約が取れるとも思っていなかったが、その場の勢いでなんとなく電話をしたら予約が取れてしまった。電話口の女性に、現在ですと約一年後の十一月の予約になりますがよろしいでしょうか、と丁寧な口調で案内され、僕は、はい、お願いしますと電話を切ったのだった。

 「予約、取れたよ」

 と、僕が言うと、紗季は

 「嘘」

 と言って、二人してソファの上でげらげら笑った。甘い匂いのする髪をかきあげながら紗季は言った。

 「いつ?」

 「一年後、だって」

 僕たちは再び無邪気な妖精たちのように笑い、そのあとセックスをした。

 そしてこの予約を取った一ヶ月後に僕たちは別れた。それ以来僕たちは会っていない。連絡も取っていない。

 僕は、お店には悪いけれど一名キャンセルをしてもらおうと決めて、翌日、予定の時間の五分前に店を訪れた。店は昔ながらの鰻屋という店構えで見るからに美味しそうな雰囲気を醸し出す退色した看板に、錆び付いた小窓からは芳ばしいタレの匂いが周囲一帯に振り撒かれていた。

 小島紗季は店の前に立っていた。

 「お久しぶりです」

 という紗季の髪は別れた時よりも短くストレートのショートカットに纏まっていて三年間一緒に暮らした時間の中で一度も見たことのない落ち着いた色に染まっていた。僕の肋骨の裏側でズキンという音がした。

 「よく覚えてたね」

 僕は努めて飄々と振る舞ったつもりだったが声帯は正直だった。震える声音は僕がまだ紗季のことを好きであるというファクトを半径二メートルにプレゼンテーションしていた。

 「美味しいのかな」

 紗季は表情を変えずに入り口の磨りガラスに目をやった。僕の知らない一年という時間が目の前の紗季を別人に仕立てていた。少し痩せたようにも見えたし少し太ったようにも見えた。焦点距離が合っていないことに変わりはなかった。

 時間になり店に通されると紗季と僕はカウンターに座った。全部で八席程度の小さな店だった。電話口の丁寧な口調の女性と若い大将が二人で切り盛りしている店だった。はじけるような威勢のいい大将の口弁が気持ちよく店内に響く。

 「本日はよろゐ軒にご来店頂き誠にありがとうございます。ご覧のようにウチは二人だけでやらせていただいている小さな店ですが、最高の鰻をご賞味いただけたらと思います。そのため捌きたて焼きたてでご提供させていただきます。まずは鰻のいろんな部位を串でご提供させていただき、その後に、こちらの生きた鰻をこの場で捌き蒲焼きにさせていただきます。そのためすべて提供するのにおよそ三時間程度かかりますが誠心誠意最高の鰻を提供させていただきたいと思いますので何卒よろしくお願いいたします」

 店内に、おお、という期待に満ちた歓声が上がった。

 「三時間て長いね」

 と小さく紗季は笑った。

 その台詞の意味合いを測り損ねたことにお互いが気づき、その言葉をキャンセルするように日本酒を注文した。

 鰻は美味しかった。備長炭で丁寧に炙られた串は人生で経験したことのない豊かな味覚を僕の舌に与えてくれた。

 だがその快楽信号はまったくといっていいほど神経中枢には届かなかったと言っていい。鰻が悪いのではない。何が悪いのでもない。

 僕たちの何が悪かったのだろう。

 おそらく日本一の鰻の串。だがそれを持つ紗季の右手の薬指にリングが嵌まっていないことばかりに目が行ってしまう。

 一緒に暮らしていた時には僕がプレゼントしたリングが輝いている指だった。当然、そのリングはこの世界には存在しないモノと化していたわけだが、新たなリングもまた彼女のその指に嵌まっていないことが、嵌めるリングを送る相手がいないのか、あるいはリングを外して来たのか、何を意味するのか、そんなことばかりが僕の脳裏を行ったり来たりする。

 「美味しい」

 「美味しいね」

 僕たちは目の前で捌かれる鰻よりも単純な思考回路を持つ生物へと意図的に退化し、ただ鰻を消化する霊長類と化していた。精一杯つとめて退化していた。

 「鰻というのは一期一会です。天然、養殖、湖、川の上流下流、どんな餌を食べて育ったか、どんな環境で育ったか、どんな水の中を泳いだか、すべて個体差があります。どの鰻が美味しいとかはその時その時の出会い、一期一会なんです。」

 大将は流れるような手つきで鰻を捌きながら語る。五寸釘よりも一回り大きな楔が、ドン、と鰻の首をまな板に固定し、猛将の武器のような包丁が美しい鰻の背中をまっぷたつに切り裂いてゆく。

 「いろいろ食べてみて、自分にはこの鰻が合うなとか、やっぱりこっちの方が好きだなとか、ご自身の好きな鰻を発見してもらえると鰻をやっていてよかったなと思います」

 内臓を千切り、ひとまとめにしてまな板の端に集めてゆく。心臓はまだどくどくと動いている。

 「お二人は初めてですよね」

 大将は手元の鰻に素早く串を差しながら笑った。

 「はい。とても美味しいです。」

 冷静に紗季が答えた。僕も心からそう思った。ほんとうに美味しかった。

 「ずっと楽しみにしていたので」

 「それはよかった。すいませんね、一年もお待たせして」

 大将は申し訳ないという表情をつくりながら素早く鰻に串を通してゆく。

 「鰻はどこで生まれるか知ってますか?」

 「どこだろう、たしか海ですよね」

 紗季が答えたが、正確には僕も分からなかった。

 「日本の川に生息する鰻はマリアナ海溝のあたりで生まれると言われています。そこから海を泳いで日本の川までやってくるんです。そして川で成長して、最後はどこに行くか分かりますか?」

 「それは分かります。私のお腹です」

 「正解です」
 
 僕たちは笑った。

 「鰻って一期一会なんです。遥か遠くの深海の底で生まれて何千キロも旅をして、それぞれの川や湖で、それぞれの餌を食べて、それぞれに成長する。中には稚魚から養殖場で育つやつもいる。ほんとうに一匹として同じ鰻っていないんです。今日、ここで出会ってみなさんのお腹の中に入る鰻は、もう二度と会えない鰻なんです」

 そう言って大将は、僕たちの前に、蒲焼きをどんと置いた。

 それは信じられないくらい美味しい鰻で、僕たちは無言でかぶりつき、夢中でその芸術品を味わった。

 何年か前にマリアナ海溝の奥、光の届かない岩陰で生まれた一匹の鰻が気の遠くなるような距離を海流に乗って日本の川まで到達し、育まれ、そして漁師に捕まり、捌かれ、焼かれ、紗季と僕の胃袋の中で消化された。

 僕たちはこの店を出たら、もう二度と会うことはないだろう。

 胃袋の中の消化液に溶けゆく鰻のように消える。

 紗季と僕の皿の上には何もなくなった。何もかもがなくなり、なにひとつ残っていなかった。頭も心臓も肝も身も骨も皮も尻尾も何もかも。

 きれいに何もなくなった皿の上に箸を置き、紗季は大将にぽつりと呟いた。

 「出会えてよかったです、ほんとうに」

 「それはなによりです」

 大将の明朗な声が店内に響いた。

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