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【短編】「平原」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 027

 羊飼いのミトはアルカディア平原に広がってゆく朝焼けをぼんやりと見ていた。

 ペロポネソス半島の乾燥した大地がゆっくりと黄金に色づいてゆく。

 噂ではあの美しい丘をいくつも越えた先にある大きな街で、ペストという怖い病気が流行っていて多くの人が死んでいるそうだ。この丘でしか暮らしたことのないミトには想像ができなかった。そもそもミトは、この村の村人たちより多くの人、というものを見たことがなかった。

 昨日と同じように寝坊をしてしまったミトはあくびをして、羊の門を開けた。はやく一人前として親方に認められたかったが、いつも怒られてばかりだ。迷子になっていないか確認するために羊をゆっくり数えていると、なぜだか眠くなる。羊を怒鳴るように自分を怒鳴りつける親方にそのことを話すと、馬鹿やろう、どの世界に羊を数えたら寝てしまう羊飼いがいるんだ、いつもくだらない言い訳をしやがって、と、さらに怒鳴られるのだった。

 ミトは杖で羊の尻を叩き、一頭一頭、広い大地に放牧させながら、今朝見た夢を思い出していた。いつも見る不思議な夢だった。

 そこは見たことのないキラキラと光る美しい金属でできた直線的な空間で、ミトは机の前に座っていた。同じ形をした机と椅子にミトと同じ年齢ほどの少年少女たちが座り、薄いガラスのような板の表面を、指でなぞったり押したりしている。みな同じ服を着て司教様のような一人の大人の話に耳を傾け、表情は真剣だ。その世界では、ミトは自分が話したことのない言葉を使い、司教様がお書きになっている文字とは違う形をした文字をガラスの板に書いている。不思議な夢だった。その夢の中では、よく同じ少女が隣の椅子から話しかけてくる。

 「また寝てたでしょ」

 「ああ」

 タクは頭を掻いた。どうしてもダメだ。その日の体力を使い切った6限ともなると寝てしまう。しかも金曜日の6限に古典の授業を用意するカリキュラムには大きな問題がある。催眠術の授業としか思えない。手元の電子端末には訳の分からない漢字が並んでいた。「吾生也有涯、而知也無涯、以有涯随無涯、殆已、已而為知者殆而已矣」いったいなんのことだ。簡単に言ってくれ。

 タクは窓際の席から赤茶けた大地にこびりついた街に沈む夕焼けをぼんやりと眺めた。火星の自転周期は地球のそれよりも39分35秒長い。そのぶん、高校の授業は地球のカリキュラムよりも長く充実している、というのがこの星の文化として尊重されているが、入植者の大人たちはその39分をもっと他のことに使う頭を持っていてほしかったと思う。

 「また定期考査の時にデータ貸してって言ってきても、手貸さないから」
 
 「親方みたいだな」

 「親方?」

 ミホは怪訝な顔でタクの顔を覗いた。

 「親方?」

 タクは今一瞬頭をよぎったイメージが何だったのか分からなかった。

 「またへんな夢見てたんでしょ」
 
 「うん」

 「どんな夢」

 「羊を数えてた」

 そう答えたらミホは、ばっかじゃない、といって静かにクスクスと笑った。

 窓の外。火星のアルカディア平原に、地球より一回り小さな39分遅れの夕日が沈んでいった。

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