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【短編】「濁りのち」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 034

 水曜日のことだった。気づいたらいつの間にか目の前を音もなく通り過ぎているような、水曜日らしい水曜日だった。

 僕は朝食をとらない。月曜日も火曜日もそうしたように、時間をかけて熱いコーヒーを丁寧に淹れ、ソファに深く腰掛け、ニュースをぼんやり見ていた。眼帯をつけた女性アナウンサーが言った。

 「関東地方です。今日は、濁りのち腫れ、になるでしょう。」

 カーテンを開けると、外は濁っていた。

 ほとんど視界は何も見えない。絵の具の洗面器に溜まった水のように、重々しい灰色の渦が窓の外をゆっくりと対流している。

 僕は催促する猫にゴハンをあげ、歯磨きを済まし、まだコーヒーの熱が残るマグカップを浄水で洗い、スーツに着替えた。猫は濁りを察知してか、珍しくドライフードを完食せず、さっさと寝床に戻っていった。

 テレビの中では、有名人が波紋を呼ぶ政治的発言をしたことに関する話、遺伝子操作の倫理についての話、政府による財政見通しの話、能登半島に新しくできたジャムを売る店の話、家庭内で幼い実の子に暴力をふるう父親の話、アイドルグループの若手役者が主演する新しいドラマの話、糖尿病予防に効果的と言われている生活習慣の話、鹿児島に暮らすプログラミングに長けた12歳の男の子がアメリカの学校に進学するという話、大企業で不正な雇用形態が蔓延している話、国籍不明のドローンによる爆撃の話、その度に、司会者は眉間に皺を寄せモニターに表示される内容を睨みつけ、コメンテーターたちがそれぞれ芝居染みたため息をついた。ため息は灰褐色の流体となり、薄茶けて濁ったスタジオに滲んで消えた。

 鏡に映った自分の姿を眺めてみると、やはり濁っている。骨董品のビー玉のような眼球。表面を這う褐色の血液は年代物の赤ワインみたいだ。

 こんなに濁った日は久しぶりだ。

 予報は、濁りのち腫れと言っていた。

 念のため、多めにアスピリンを鞄に入れ、玄関を出た。

 外はかなり濁っていたので、歩いても歩いてもバス停にたどり着けない。会社に遅刻するのは間違いないだろう。

 いったい腫れるのは何時くらいだろうか。腫れてしまえば会社に着くことはできるだろう。仕事ができるかどうかは分からない。

 腫れたら腫れたで、身体中が痛み出す。

 遠くで町田に配備された対空砲火が連射を始める音が聞こえた。

 その方向を眺めたが、濁りが強すぎて、パパパパ、という乾いた音しか届かない。

 まだ僕自身が痛むのはいい。アスピリンで何とかなるだろう。

 世界が痛み出すことに、胸が痛んだ。

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