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【短編】「お化け」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 030

 兒玉海香は深夜ラジオのアナウンサーが読み上げる天気予報を聞いていた。

 低気圧は太平洋を移動し明日の朝には伊豆諸島に差しかかるでしょう。

 時刻は深夜3時を回っていたが、眠れなかった。机に座り、ノートパソコンを開いていたが何をするでもなく、ただ座って机の上の携帯ラジオから一定のリズムで空間を刻む静謐なアナウンサーの声に耳を澄ましていた。

 父は死んでしまった。

 道に飛び出した子どもに反応してトラックに撥ねられて死んだ。子どもは無事だったが、父が助けたのかは分からない。ただ、父の遺体が眠る病院のベッド脇で子どもの母親に何度も謝られた。海香は笑顔をつくり、お子さんが無事で本当に良かったです。と声に出したが、本当は早く帰ってほしかった。

 低気圧は太平洋を移動し明日の朝には伊豆諸島に差しかかるでしょう。

 海香は見渡す限り果てしない漆黒の太平洋の海面に、鉛のように重い巨大な暗黒の雲から音もなく降り注いでは無数の波紋をつくり消えてゆく無名の雨脚の情景を想像した。

 父は心に波が立ったとき、その光景を思い描くといい、と言っていた。

 人の匂いの届かない世界に生まれては消える波状の幾何学。その下には一万メートルの深さまで暗闇の海が広がり無数の海洋生物たちが眠っている。ウツボは岩陰に身を潜め、ネムリブカはここぞとばかりに蟹や蛸を捕食しようとゆっくりと移動する。抹香鯨たちは墨でできた柱のように浮遊しながら休息をとっている。そこへは一条の光も、海面で生まれる波の音も届かない。無と静寂。

 その巨大な静寂が海香の心を落ち着けた。

 低気圧は太平洋を移動し明日の朝には伊豆諸島に差しかかるでしょう。

 海香は幼い頃、お化けが怖かった。10時が近づくと、お化けが出る時間だよ、と父に脅されて、本当に泣きそうになった。パパは?パパは起きててお化けさんに会っても怖くないの?と聞いた。パパはお化けさんとはお友達だから大丈夫なんだよ、と父は言っていたが、今考えたら、何が大丈夫なんだか。そんなことを思い出し、口元が笑っていることに気づいた。そんなとき父は、もしパパがお化けになったらずっと海香のそばにいてもいいかな?とよく聞いてきた。その時はいつも、いいよ、と答えた。

 父は本当にお化けになってしまった。

 もう夜中の3時だよ。出てきてくれないね。

 本当は分かっていた。父はお化けになっても私を覗くようなことはしないと。

 きっと、どこかで、私のことを信用して、遠くからほったらかしにしておいてくれるんでしょ。

 漆黒の太平洋に膨大な低気圧から音もなく降り注ぐ無量大数の雨を思う。

 大丈夫だ。空が白む前に今日を終えよう。低気圧が伊豆諸島に差しかかる前に。

 ありがとう。
 
 ずっとずっと、おやすみなさい、パパ。

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