【短編】「夜空」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 020
先生はちょっと変わってた。
私が高校生の時に来ていた大学生の家庭教師。国立大の理工学部なのに、自分は建築学をやっているから「似非理系」だと言っていた。数学科や物理工学科に比べたら建築は理系じゃないらしい。世界の大学で建築学が理系に属しているのは日本だけで、それは地震の国だからだ、構造力学がうんぬんかんぬん、と、長い話が始まる。見た目は草食系男子なのに、なかなかメンドクサイ先生だった。また先生の長い話が始まりそうになったので、私は、数学の教科書の上でシャーペンを回しながら一見真面目そうな質問を呟やき、先生の持論を遮った。
「先生、数学ってやる意味あんのかな?」
「沙羅さんは数学が嫌いですか?」
「嫌いじゃないんだけど、何のためにあるのか分からくない?虚数とか無限とか、生きてて、このあと私に関係すると思えない。まだ25歳年上のオジさんの方が関係を持つかもね、その人が素敵なら」
「おだやかじゃないですね」
「数学よりおだやかだよ」
「空を見るといいですよ」
そう言うと、先生はおもむろに私の部屋の小さな窓を開けた。12月の東京の空気が流れ込む。
「寒いよ」
「空はどこにあると思いますか?」
「え、空?中野区でしょ。ここ中野区だよ」
「空は宇宙なので、空を眺めるってことは、138億光年先の宇宙の端を見ていることになります。宇宙に端がなければ、もしかすると無限を目で見ているかもしれません」
先生は、一畳のベランダに裸足で出てゆく。
私も仕方なくベランダに出て先生の隣で空を眺めた。星は、ほとんど見えなかった。ここは中野区だ。マウナケア展望台ではない。
かろうじて、分かる星座がひとつだけ。
「オリオン座」
「オリオン座のリゲルまで、距離はだいたい860光年です。138億光年に比べたら小銭です、小銭。」
「無限は?」
「138億光年が小銭になります。」
「私は無限より138億円が欲しいよ」
わたしがそう言うと、先生は困った顔をして笑った。
私が覚えている限り、先生が笑ったのはその時だけだったけど、その笑顔は少年みたいで可愛かった。
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