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【短編】「と」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 028

 歩、として生まれてきた以上、一歩一歩ひたむきに進んでゆき、やがて金に成ることが僕の人生の目標だった。

 だが、それが叶うあと一歩の地。そこで4四角に刺され捕虜となってしまった僕が狭い房で出会ったのは、ずっと憧れ続けていた金さんだった。

 金さんが飛車からの強襲を受けた本陣で王の縦となって刺されたという噂は僕たち前線の歩にも伝わっていた。

 金さんは房の壁が遙か高い位置で作る小さな正方形の空をじっと眺めていた。その表情は王を守るという絶対的な使命から解放された安堵だったのか、使命を成し遂げられなかったことへの後悔だったのか。歩の僕には想像もつかなかった。房には僕と金さんの二人しかいなかった。僕は何も言葉をかけることができなかった。身分の差を息苦しく感じた。その空気を察したのか、単に暇をもてあましていたのか、金さんが口を開いた。

 「誰にやられた?」

 僕は高鳴る心臓を押さえ、おそるおそる答えた。

 「角です」

 「そうか。あいつは速い」

 「気づいたら刺されてました、はは、どこから飛んで来たのか」

 しまったと思った。金さんが飛車に刺されたのだとしたら、彼らの高い移動能力に触れたのは気に障ったかもしれない。

 だがそんな僕の予想とは裏腹に、金さんは数式を読むように冷静な声色で語った。

 「速いやつも遅いやつも所詮みな駒だ」

 僕は意外だった。金という部隊はエリート意識の固まりだと思っていたからだ。

 「僕は金さんに憧れていました」

 金さんはこちらを振り向かず、じっと空を見ていた。

 「いつか、一歩一歩地道に歩いて、敵の防衛戦を突破すれば金に成れる。そう教え込まれて、その教えを信じて、自分の可能性を信じて、一歩一歩、戦場を歩きました。あと一歩だったんです。あと一歩、敵地に進むことができれば、僕は金に成ることができた」

 語っているうちに涙が床にぼたぼたとこぼれた。

 「僕は一歩、足りなかったんです。一歩が」

 「それは違う」
 
 金さんの声が静かに房を震わせた。

 「お前はあと一歩で金に成れた、というが、それはお前の目的ではない。お前の目的は王をお守りし、敵の玉を討つことだ。金に成ることではない。それは手段だ。手段を選択するかしないかは歩であるお前次第だ。金に成ることが絶対ではない。それに...」

 金さんはすこし口をつぐんで、続けた。

 「俺たち金だって万能ではない」

 「どういうことですか」
 
 「俺たちにも動けない場所がある。斜め後ろだ」

 「そんな」

 僕は呆然とした。金はエリート中のエリートだ。そんな金にも動けない場所があるなんて。

 「それに見てみろ」

 そう言って金さんは僕に小さな鏡を向けた。

 「背中を向けてこっちを見ろ」

 僕は言われた通り、金さんに背中を向け、振り返った。金さんの持つ鏡には、僕が生まれてから一度も見たことのなかった自分の背中が映っていた。何かが赤い文字で書かれている。

 「…と?」

 「そうだ。お前は金には成れないんだ。お前が成れるのは「と」だ。」

 「…と。」

 「「と」だ。金ではない。」

 「…と?」

 僕は震えた。あんまりだ。僕が夢にまで見て、追い求めてきた理想の姿が、金ではなく「と」だったなんて。「と」ってなんだ。漢字ですらない。意味が分からない。

 「と」ってなんだ?「と」って。

 歩の分際でオレの前を行くんじゃねえ、と馬鹿にしながら斜め前に進んでいった銀をいつか金に成って見返してやろうと思っていた。僕の五回分の飛距離を一気に進む香車への劣等感を金に成ることで拭おうと自分を鼓舞してきた。金に成るという夢が僕のすべてを支えていた。

 だが僕は金に成れない。僕は「と」にしか成れない。

 「そういんもんさ」

 酷い。あまりにも酷すぎる。もし真実がそうだったとして、その真実を僕に見せる必要があるのか。金さんへの怒りが込み上げてきた。あなたは選ばれしエリートかもしれない。僕がどんなに努力しても成れない存在かもしれない。だが、その事実を下級兵士の僕にいま見せる必要がどこにあるというのだ。

 「あんまりです」

 僕は震えながら膝を落とした。怒りと失望の入り交じった感情が全身から抜けた虚脱感の中、声を振り絞る。

 「金さんはエリートかもしれない。でも僕には夢があったんです。手段ではなく、夢が。金に成ることが夢だったんです。その夢を自分の手で掴んだら、自分が金に成れなかったことをその時に知ったでしょう。残念に思ったかもしれない。でも、それを、その夢が存在しないことを自分の手で掴む前に告げるなんて、あんまりです」

 「自分の足で踏み出せ」

 「何をいってるか分かりません」

 「お前は一歩前にしか進めないなんて誰が決めた?」

 「え?」

 僕は顔を上げた。

 「それは生まれてからそういうふうに決まっていて」

 「オレは斜め後ろには進めない。それは決まっていたことだ。だが、オレはいつも思っていた。斜め後ろに進みたい。いや、斜め後ろに進むんだ、と。」

 金さんが何を言っているのか分からなかった。

 「でもそれは無理で」

 「無理だと誰が決めた?お前が本当に金に成りたいのなら、オレを越えろ。横にも斜めにも、お前が動きたいと思う場所にお前の意思で動け」

 そのとき僕は金さんの伝えたいことがうっすらと分かった気がした。自分の殻を破って理想の自分に近づくこと。それが本当の金に成ることだということが。

 「金さん…」

 僕が口を開いた時だった。大空から僕をこの房に放り込んだ手が僕を掴み持ち上げた。出撃だ。金さんの姿が眼下に小さくなってゆく。離れてゆく金さんの表情はもう見えなかった。

 金さん、分かりました。僕は僕の思う通りに動きます。自分の限界を超えます。僕の決意は金よりも硬かった。

 「おい。その歩、そんなとこに打ってたか?」

 公民館の将棋室で島田は富川の打った手にぼそりと釘を刺した。

 「お?悪りい。ずれたのかなあ。ボケたか。歩が斜め後ろに動いてらあ」

 富川はぼりぼりと後頭部を掻き、缶ビールを一口飲んだ。

 「酔ってんじゃねえぞ。歩ぐらい、ちゃんと打て」

 「失敬、失敬」

 そう言って、富川は人知れず斜め後ろに動いていた歩を、元の位置にきちんと戻した。

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