見出し画像

【短編】「アキレス」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 063

 カメは走っていた。その速さは誰かがそれがカメであるということを解説しない限り誰もカメだと気づくものはいない。常識を凌駕したような速さだった。走っていた、というのは言葉上の表現に過ぎず、カメの移動は物理法則を無視していた可能性すらある。もしかすると空間が伸縮していたのかもしれないと思わせるような、そんな三次元上の移動だった。

 カメは自分はなぜ走っているのだろうか、という疑問がたびたび頭をよぎったがその度に理由なんてどうでもよい、という気になり疑問は蒸発した。カメはひたすらに身体の位置座標を変化させ続けることに没頭した。

 実はカメはある動物から競争を挑まれたのだったが、それは遥か昔のことであり、その事実に関する記憶は小さな脳から消去されていた。その動物が哺乳類だったか爬虫類だったか、あるいは両生類だったか、そんなことすら思い出せなくなっていた。

 カメはその動物に勝つことを目的としていた。相手は走る能力が高かった。だからカメは努力をした。来る日も来る日もタイムを縮めることに邁進した。レースはいい勝負だった。彼がカメであるということを考慮した場合、信じられない健闘ぶりだった。レースは終わり、お互いがお互いを讃えた。だがカメはそこで走るのを止めなかった。

 カメはひとりになっても走ることを止めなかった。カメがカメであることを受け入れたその時点でその先はなかった。ただのカメになること。それが恐かった。

 カメは走り続け、時が流れた。カメの移動は次元の限界を超えた。

 永遠とも呼べる長い時間が経過した。カメの背中を追う者がいた。

 アキレスという人間だった。

 アキレスはカメが遥か昔、兎と勝負をした時からカメを追い続けていた。カメの姿を記録し続けていた。カメとは思えない移動速度に好奇心をかき立てられ追った。まさか自分がこんなに永い時間、カメを追い続けるとは思ってもみなかった。妻と子どもには何も言わずに村を離れてしまったことを後悔もしたが、それも遥か昔のことだった。

 アキレスは以来、ずっとカメの背中を追い続けて来た。カメの速度は上昇を続けていた。そのためにアキレス自身も速度を上昇する必要があった。信じられない速さで走るカメを見てみたい、という原初的な好奇心だけが彼の速度を高めたが、もはやその思いも遥か昔の時間の中に消え去っていた。アキレスの速度が上昇するのと同等にカメの速度も上昇していることには気づいていた。アキレスは自身の身が消滅するまでカメに追いつくことはないであろうことを感じていた。ただ目の前にカメの背中がある。そのことだけが彼の歩みを止めることを永遠に阻止していた。

 なにかを始めたときのきっかけはなんでもよく、追求を続ければ何かが見えてくる、あとはその時に見えた何かをひたすらに追い続ければ、いい。そんな気がしていた。

「って、ことだと思うよ」

 と、僕はハンドルを右に切りながら助手席に座る娘に話の概要と解釈を伝えた。

「なんか違うと思う」

 娘は釈然としない様子で進学塾の鞄に付けた猫のキャラクターをいじっている。

「そうかな」

「最近のパパの話、説教臭い」

「歳かな。だとしたら抗えないな。申し訳ない。いってらっしゃい」

「いってきます」

 小さな声でぶっきらぼうに娘は言葉を残すと、助手席のドアを閉め、小走りで駅前の雑居ビルまでゆきエレベーターのボタンを押した。

 そしてドアが閉まる直前までその様子をみていた僕に、小さく手を振った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?