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【短編】「闇に隠れて」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 073


 闇に隠れて生きる。俺たちゃ妖怪人間なのさ。という歌は昔の昔に流行ったアニメの主題歌らしくて、透子はその歌をずいぶん前にインターネットの動画サイトで見たことがあったのだが、実際のアニメーションの内容についてはほとんど何も知らなかった。容姿の醜い妖怪人間たちが人間社会の中で様々な事件に巻き込まれ、時にはそれを解決し、悪人を退治したり、出会った人間との間に友情が芽生えたりする話だよ、と教えてくれたのは透明人間の康男で、彼は休み時間に、パックのオレンジジュースを片手に、まあ、人の内面の醜さを批判的に描く典型的な手法だね、と、聞いてもいないのに批評家めいた態度で語ってくれた。手元のパックがきゅううっと絞られ、オレンジ色の液体がストローを伝い、学ランの上の何もない空間に消えていった。

 康男の言うとおり、その歌は妖怪人間たちの悲哀と切望を歌っているように聞こえた。人間になれない人間たちの歌。闇に隠れて生きる者たちの願望。

 だが透子はその歌を口ずさむたびにいつも人間ではないものへの憧憬を感じた。町が寝静まった午前二時過ぎ。その時間に透子は誰も歩いていない住宅街を散歩するのが好きだった。地方都市の都心から離れた郊外の住宅地は春から秋にかけては虫の声だけが静かに鳴り響くが、秋が通り過ぎ冬が近づくにつれ全ての音が消失した。人の気配は皆無で、空気の分子ひとつひとつまでが手付かずの状態に感じられた。白い息を吐きながらその中を歩いていると、世界がすべての届く範囲にある仮想現実のような空間で、背伸びをすれば天空の星々にも触れるような気がした。

 人が稼働していない裏の時間。その居心地の良さを味わうたびに、透子は自分が人間ではない存在になるような気になるのだった。楽しいことも悲しいことも十七歳の透子にとってみたらそれらはすべてすぐ近くにいる人間たちのくれる感情に過ぎなかった。自分の好きに進路を決めされてくれる穏やかな父親も、いつも笑顔で話し合える友達のような母親も、お姉ちゃんあのね、と何でも相談してくる七歳離れたかわいい妹も、そんなまったくもって恵まれた家庭環境でさえも、人間というシステムの中で作動する装置に感じられた。そして私はその装置の中で誕生したのだ。学校に行けば友人たちや教師たちという装置の中で楽しいことや苦しいことが生まれる。優良な透子の内申書は特に大きな問題もない学校という環境装置を与えてくれた。透子自身、たとえば康男のような被視認性視覚困難症を持ち合わせているわけでもない。どう考えてみても不自由のない明日が待っている。

 にもかかわらず、真空の暗闇に満たされた住宅街をひとりで歩いていると、この装置の稼働しない深遠な闇が永遠に明けなければいいのに、と考えてしまうのだった。

 丘になった住宅街の頂上付近の空き地のコンクリートブロックに腰を下ろすと、遠くに街明かりが見えた。幹線鉄道の駅がある地区だった。赤や青の混じったそれらの光は書き割りに穿たれた穴からの光のように平坦に思えた。一枚の画像がこの世界を天蓋の形に覆っているかのようだった。

 あと四時間もすればその天蓋に大きな穴が空き光が差し込んでくる。装置が動き出し、無数の喜びや悲しみが発生するのだ。透子は白い息をゆっくりと吐いた。しばらく座っていたのでコンクリートの角がお尻に食い込んでいて、ずらすとすこしじんじんした。透子はゆっくりと立ち上がり坂を降りて家路に向かった。闇に隠れて生きる。俺たちゃ妖怪人間なのさ。

 スマートフォンの目覚ましを止めて目覚めた。

 ゆっくりとベッドから起き上がりカーテンを開ける。目覚ましの時間を間違えたのだろうか。まだ夜だった。外は真っ暗だ。スマートフォンの表示を見る。六時十五分、と表示されている。だとすればスマートフォンの時計が壊れているのかもしれない。一階のリビングに降りると母がすでに起きていて、テレビのニュースを見ながら朝食を作っていた。母は降りてきた透子に気づくと、透子ちゃん、なんか大変なことになってるみたいなの、とフライパンでソーセージを転がしながら呟いた。

 テレビの画面は、臨時ニュースを報道する際に使われるような青い枠で区切られ、そこに赤い大きな文字で「太陽が消失。」と書かれていた。下部には交通状況の情報や公的機関各所のコメントが右から左にゆっくりと流れている。その中でニュースキャスターがスタジオに呼ばれた数人の大学教授に質問を投げかけていた。

 「太陽がなくなってしまったというのはどういう現象なのでしょうか?」

 セットする時間もなかったであろう薄い髪と、脂の滲んだ顔面に真剣な表情を貼り付けた天文学の教授が、ときおりつっかえながら説明した。

 「はい、正確に言えば、太陽が消失したわけではありません。我々の天文台の観測によると、太陽はこれまで通り存在しています。ただ、なんらかの理由で光が失われたと見られています。」

 ニュースキャスターが問いかける。

 「太陽はあるのに、光が失われた、というのはどういうことなのでしょう?」

 「はい。太陽活動というものはいくつかの種類のエネルギーを発生させています。紫外線や可視光線などが宇宙を超えて地球に届いているわけです。その中の我々の目に見える光の成分が何らかの理由で届かなくなった、あるいは、発生をやめてしまったものと考えられます。考えられます、と、私、申しておりますが、これまでの物理学、天文学の常識から言えば考えられないような事態になります。」
 
 「ということは、この状態が続けば、どうなるのでしょう?」


 「はい。まだ十分なデータが得られていなので現時点で正確なことは言えません。ですが、観測によりますと、大変不思議なことに地球に届いていないのは我々の目に見える光、専門的には光子というのですが、それのみで、熱や紫外線などのその他のエネルギーはこれまでとまったく変わらずに届いています。ですので、目には見えませんが太陽が地表から昇れば、気温は上昇しますし、不思議なことに植物の光合成も問題なく行われているという報告が上がってきています。つまり、見た目は空から太陽がなくなってしまったのですが太陽活動自体はこれまで通り行われているため、地球の活動自体に、緊急の問題は現れないのではなかろうか、と、現時点では思われます。」

 ニュースキャスターは、まったくもって形骸化した、なるほど、という言葉を挟み、カメラに向かって丁寧に原稿を読んだ。

 「お伝えしていますように、日本時間、午前三時三十六分過ぎ、太陽が消失する、という現象が発生し、今現在も、その現象は続いています。今の時刻は午前六時二十二分です。お出かけになる際には、十分に足元にお気をつけください。また、さまざまなシステムで不具合が起きている可能性があります。火の元や戸締りなど、十分にご注意ください。各航空会社、JR各社、各都道府県の私鉄、地下鉄、バス会社に寄りますと、午前六時三十分現在、ダイヤの乱れはない、との情報が入ってきております。また、各地の原子力発電所のシステムには現時点で問題は見られない、との情報が入ってきております。政府は午前四時半過ぎに官邸に緊急対策委員会を設置し、国民の安全を第一に考え速やかに政府としての対応を協議する、という声明を発表しています。お伝えしていますように、日本時間、午前三時三十六分過ぎ、太陽が消失する、という現象が発生しました。政府の見解によりますと、健康状態に直ちに影響はない、との発表がされておりますが、外は暗くなっております。外出の際には、くれぐれも足元にお気をつけください」

 「暗くなってるから足元に気をつけろって、夜と同じじゃんね。」

 と、母が言ったので、透子は笑った。

 「大変なことになってるね」

 「でもなぜか光合成はできてるんでしょ?よかった、庭のポインセチアやシクラメンたちはいつも通り栄養を貰えるみたいで」

 母はいつもと変わらない様子で、お父さんとシズを起こしてきてくれる?大変なことになってるわよ、って、とキッチンの向こうから私に伝え、目玉焼きをソーセージの脇にとりわけた。

 結局、起きてきた父も妹も同じような反応で、我が家はいつもと同じように朝食を食べ、それぞれがそれぞれの職場と学校に向かった。ひとつ違うことといえば朝食ではなく夕食を食べているような気分になったことくらいだった。

 学校では、ほとんどのすべての生徒が普段と変わらず登校を終えていて、教師たちは職員会議を開いていた。一時間目の授業は中止で自習となり、そのあと講堂で学校としての注意事項と今後の方針説明が行われる、ということだった。

 「もともと誰からも見えない俺にとっては、何も変わらないと思ったんだけど、そうでもないんだな、これが」

 康男がブドウジュースのパックを吸いながら話しかけてきた。

 「電気で照らせばだいたい見えるでしょう?」

 「そうでもないよ。照らせない場所っていろいろあるし。海や山で遭難した人の捜索とかさ、できなくなるスポーツもあるし、できない仕事とかあるでしょ。けっこう大変なことだと思うよ」

 「ふうん。たいへん」

 透子は、宙に浮いたストローの紫色の液面が上がったり下がったりするのをぼうっとみながら曖昧にうなづいた。

 「宇宙ってのはよくわかんないよな」

 興奮気味の康男は情報を得るためにスマートフォンの画面に釘付けになっている。株価やべえ、とか、すでにアメリカが空母の配置を変え始めてんじゃん、などと独り言を呟いていた。

 透子は教室を出た。もちろんこの状況で机に向かって自習をする生徒はひとりもいなかったが、みなわいわい教室でああでもないこうでもない、とざわついている。

 透子はひとり、校門の外に出てみた。不思議な気分だった。まるで夜に学校に来たような錯覚に陥る。車はライトをつけて走り、歩道にはベビーカーを押す女性もいればスーツを着た男性もいる。配送トラックは昼のシフトの密度で走り、気温はニュースの言うとおり夜にしてはすこし暖かかった。夜なのに夜ではない街が広がっていた。

 世界のシステムに不具合が起きた。闇が明けない世界。それは透子が望んでいたものだった。永遠に続くのかもしれないし、続かないのかもしれない。だが、これは闇ではない、と、透子は思った。

 透子は当てもなくぶらぶらと歩いた。空を見てみたがそこに太陽はなかった。いくつかの知っている夏の星座が横たわっていた。白鳥座のデネブが澄み切った冬の空気の中で煌々と輝いている。息を吐いてみたら、あの暗闇の時間ほどではないが、白いもやが透子の前に現れた。透子はぼんやりと歌の歌詞を頭の中で口ずさんだ。なんだっけ。

 はやく人間になりたい。

 そうだ。その通り。ちぐはぐに回り始めたシステムの中で、白いもやはまるで透子自身のように所在無さげに新しい世界の闇に消えた。

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