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【短編】「体内時計」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 056

 どうやら昨晩酔った際に体内時計をどこかに落としてしまったらしい。

 都内を走る環状線のつり革につかまって腕時計を見ると針は10時19分を差していた。

 先刻見たときは9時19分だったから一時間が経過したことになる。

 窓外を流れてゆく高いタワーの近景に既視感を感じたのはこのためだろう。

 道理で降りるべき駅にたどり着かないわけだ。

 この電車に乗ったのは何時だっただろうか。忘れてしまった。

 今朝のことだとは思うが昨日のことだったと言われればそんな気がしないわけでもない。

 電車は先ほどからガタッガタッと小刻みに分岐路を跨いでいる。

 環状線の駅の中に私の降りるべき駅があるはずなのだがいつまで待ってもその駅はやって来ない。

 さては線路の表面と裏面が入れ替わっているのではないかと勘ぐってしまうが陽は時刻通りの角度で地面に影を落としている。モノを失くす方が悪いという摂理からいえば始点と終点はサークルが生まれた時点で消えてなくなる。

 失くしたのは私の時間なのか始まりと終わりなのか分からない。

 このままつり革に掴まっているのが正しいのであろうが、その選択は己の進路を守れど打開はしない。

 思えばこの電車も始発から目に光を灯し終電となり車庫に眠るまでずっと円弧上を回るのである。一秒も狂わず定められた駅に乗客を運び続ける使役に従事する身としては、私と何も変わらない。

 車両では私以外の人間は定められた通りに出入りを繰り返している。ダイヤグラムが作る美しいプログラムである。

 時間を失くしたとすれば私は傍観者である。

 どこか他人事ではあるが他人事であるぶん取り戻すことは難しい。

 私の体内時計は誰かの手で駅の落とし物係に届けられているかもしれない。

 駅に降りたいがどの駅で降りれば良いのかが分からない。

 どの駅で乗ったのかも分からない私がどの駅で降りるべきなのかを知ることはゴールドバッハ予想の証明のように、もどかしく遠い。

 だが一方で、このまま円弧上の定点を通過し続けることに安堵を感じるようでもある。

 私は時間なんて戻らなければ良いのではないかと心のどこかで思っている己の嗜虐にぞっとし、笑う。

 太陽が南中を迎える。

 すれば、影もなくなるだろう。

 終わりの来ない電車は影のない都市を走り続ける。私はその電車を降りようともしないし、降りる術を知らない。

 もう、とうの昔に忘れてしまった。

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